パラレル・ワールドは、ジブリに対して?



夏休み

東京都現代美術館は、夏休みになると、ジブリ系ネタで、集客しながらお金稼ぎが数年前からのしきたりになっているけれども、同時に現代美術の展示もやっているのが、ちょっとしたスケベ心なのかなと、いや、どちらが、どうスケベ心なのかが難しいのだけれども。
そして、いつもなら空いていて静かな空間が混み合って、騒がしくなるわけです。が、今年は、ちょっと違って、人が少ない。と、思ったら予約制に変えたのですね。まぁ、公共施設なことでもあるし、美術手帳もジブリ特集くむぐらいだから、いずれにせよ、多数決の原理に対しては無力であることしか出来ないし、自分をちゃんと持てばどうでもいいことに思えるようになるはず。


パラレル・ワールド

で、その横でというか上で展示されているのが、パラレル・ワールド。ユーグ・レプ氏がキュレータで、幾人かの作品を集めた展示。パラレル・ワールドという言葉が示すように、日常にありそうな風景であったり、題材でありながら、その大小の変化や形状の変形などなどによって、異空間を感じさせる作品が展示されている。どこか、童話の世界というか、不思議の国のアリスの世界というか、そういった感じの空間がそこにはあるという感じで、現代美術の展示空間に時々感じる冷徹さや冷ややかさとは全く正反対で、暖かみであったり、柔らかさであったりを感じさせるような、どちらかというほのぼのとした物さえ感じさせるのが、全般的な印象。


無意味さ

全般的には、結局無意味さのような物が貫かれているような感じがする。現実の物事を別の空間に置き換えてみてやると、アニメ化したかのような劇的な見やすく心地よい空間は生まれてくるのだけれども、そこには、それ以上の何もないというような。しかし、翻ってみると、そもそもの現実と感じる空間であっても、そこにあたかも様々な感情が存在するように見えて、それは、自分自身が植え付けているものに過ぎなくて、他者の感覚をすり抜けたものとしての作品になってしまうと、自分自身がそこからはぎ取られているために、無意味にしかならないと、そういうことかもしれないし、それが作品の宿命でもあると、そしてそこが特にクローズアップされている。となると、もしかするとこれらの作品を作った人にとっては、それはその作者自身の思いがあるのかもしれないけれども、一方でそれを鑑賞者の立場で見ると無意味にしかなり得ないと。
そして、そこに残る感覚は、不思議だとか、かわいいとか、そういった感情が残るに過ぎないということなのかもしれない。つまり、現実の世界の減りゆく修飾表現とは一体どういう事なのかをこの展示は示していると、それはあまりにも無理な説明だろうか。
だから、むしろ語彙を失いつつある世界に存在しているということは、自分自身がはぎ取られたパラレル・ワールドに対しているかのように生きている現代の生活がそこに浮かび上がってくると言うことにも思えてくる。


そして、まさに

それが、まさにジブリ的世界であって、それこそが結局パラレル・ワールドなのだという、自己批判的な展示であるということなら、東京都現代美術館は恐るべしということになる。これだけの多くの観客を集め、同じような感想をそこに抱くということ自体、それは、本当の自己ではない対象に対して、かわいいと同じレベルの感想であるということを指摘しているとするならば。そういう世界に生きていて、そして、そういった感情に浸ることをむしろ我々は、それこそが水であるかのように、求めているのかもしれない、この現代社会では。


流れ弾

ジブリを見ると、パラレル・ワールドが安くなると言うことがあるのか知らないけれども、なんとなく、ついでにな感じでパラレル・ワールドを見にきている方もいるような気がした。そういった人にとっても親しめる展示だったと思う。すくなくとも、表面的には。作品に、引くことなく、かわいいとつぶやくことの出来る展示が多いのだから。
しかし、かといって、現代美術ファンが増えるとは思わない。そこもまた、パラレル・ワールド。


アラン・セシャス

ちなみに、私は、アラン・セシャスの白黒な作品が最も気に入った作品であった。


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SEUNZE.com -> dzd12061 -> 東京都現代美術館:MOT
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