ゼロ年代のベルリンという展示を東京都現代美術館にて



引き続き

昨日は、「建築、アートがつくりだす新しい環境―これからの“感じ”」を紹介していましたが、それと平行して東京都現代美術館にて開催されている展示、「ゼロ年代のベルリン - わたしたちに許された特別な場所の現在」という展示も見てきました。ということ、引き続きこちらの方の感想です。


ベルリン

そのタイトル通りに、ベルリンを活動の拠点の一つとしている比較的若いアーティストの作品を集めた展示。何かの主題をもってというよりも、場所の特性をもとに集められたという展示なので、そこから、一つの都市の現在を垣間見ることの出来る展示ととらえるのも一つのとらえ方だろう。


虚実・東西入り交じる

全体的に感じられるのは、虚実が入り交じると共に、さらに東西が入り交じっていくという作品が多いと言うこと。20世紀後半には、より多様性を認めるという方向性のもとに、羅列がたの作品が多く作成されたように感じているのだが、時代は、さらに変化し、もはやその全てを描くことが不可能なほどに多様性を認めるべき時代に突入している。そして、その結果として、全体性を描くことは不可能になり、再び、それぞれの個に注目が戻ってきたのが、21世紀初頭なのだと思う。しかし、単に個に回帰するのではなくて、個に回帰しても回帰しきれない何か。そこにすでに入り込んでしまった多様性を以下に消化し、新たに展開していくのかが求められているのがこの現代だろう。そして、それをまさに作品に投影したものが多く展示されいると感じた。


例えば

フジ・リユナイテッドの作品は、まさにそうで、虚実が入り交じるノンフィクション的な舞台の舞台そのものなのか稽古の状況なのかも不明な状況で物事が進んでいき、さらにそこでは客観的価値なのかそれとも主観的な価値なのかが議題にされている。
もしくは、少し前に原美術館での展示でも話題になった、ミン・ウォンの作品についても、映画という虚構の場にさらに演じ直すという虚構を重ねつつ、映画の題材にも言及している。


地域的な

別の視点では地域的な問題をしかし、深刻には捉えすぎない手法にも、そういった概念が感じられる。
例えば、サーダン・アフィフの作品や、アンリ・サラ、ネヴィン・アラダグの作品などは、西側の価値観とはことなる自らのオリジンに関わる問題を題材にしながらも、その処理には主張と言うよりは認識を促すという側面が強く感じられるそれであって、そこにも多様性の容認が感じられる。


否定しない

そう、もし我々が過剰に多様性を主張したときには、それは一方で他所の排斥につながる場合がある。それを避けるためには、多様性をただ認め会うしかないのだと思うし、それが、21世紀初頭のとりあえずの解決手段なのかもしれない。


うまく投影

その意味でも、この展示は、現代をうまく投影した展示になっているように感じた。私は、比較的個展よりも、こういった集合展示の方が好きで、こうやって種々の作品の中に文脈を探りながら鑑賞することがとりわけ面白いと感じている。
是非とも、この展示をとおして、多くの方がいろいろなことを脳に描くことが出来るといいのかなって思ったりします。


関連リンク:
東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO
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