ICC:第四回「オープン・ソサエティ」

1.疲労
あまりにも様々な出来事がバラバラと降りしきる雨のように降ってきて、そしてThings Undoneの水たまりがどんどんと拡大する今日この頃。「Art2.0・・・」もなかなかアップできずどころか、ブログ頻度自体が低下中という状態。それに加えてというかそうであるが故にというか、疲労も溜まりに溜まってきている。そんな中、本日が最終回となったICCリニューアルシンポにまたも行ってみた。さすがにライブイベントまで参加する元気はなかったが。


2.内容
今回は以下の4名でのディスカッションで、生態や自然というところに見られる現象を元に社会を眺めるという方向性。
池上高志:複雑系システム論/東京大学大学院総合文化研究科助教
佐藤哲生態学長野大学産業社会学部教授
安冨歩理論経済学複雑系システム論/東京大学大学院情報学環助教
芹沢高志:アート・プロデューサー,P3 art and environment


3.不確定
つまりに決定論的には何も語れないのだという、近頃多くの人が気づき始めているというか、きっと過去の哲学関連のものも読めば読むほどそんなことが表現されているのだろうなというところから議論の口火が切られる。目標に向かって後戻りできない都市計画を立てて進んでいっても、その目標自体が実は固定することの出来ないものであって、結果として計画と結果に大きな差異が生まれてしばしば問題を引き起こすと。
3.1アフリカの国立公園
そこから繋がって、まず佐藤哲氏からアフリカのある国立公園における国立公園というシステムとそこに常にある人々の共同体との見事な共存関係の話。ここでは国立公園における厳格な規則による管理の結果うまくいっているのではなく、むしろその管理は機能していないにもかかわらず、密漁だとかという問題が大きくならないままに人々の生活自体もあるレベルで均衡を保っているという事例。つまり、ここでは自然が破壊されていくという事態も起こらず、一方でそこに住む人々が住みづらくなるという現象も起こらない均衡関係がうまく形作られているという珍しい事例ということ。逆に言えば、このような共存システムに何らかの可能性が見えるのではということだろう。
3.2複雑系社会
池上高志氏からは、複雑系をベースにしてコンピュータ上である存在に機能を与えて存在させるとどうなるかという”実験”を通した生態、存在解析の話(正確に言うとだったと思う。疲労が極限に達したため睡魔との戦いの中、半意識でしか聞けなかったので・・・)。ある存在にその存在特徴を確定的なものとして与えるのではなく、ある揺らぎ(カオス)を持つものとして特徴を与えると、その揺らぎによってある動きをし始める。そこには、一定のベクトルがあるわけではなく、揺らぎの中のある条件が一致すると、在る条件の位置から別の位置へと動き始めるもしくは留まる。その意志決定については、揺らぎがきっかけとなる。我ながらうまく表現できていないが、そのような内容だったと思う。
3.3黄土の緑化
続いて安冨歩氏から中国の黄土地帯の禿げ山緑化についての話。面白いところは、放っておけば徐々に雑草が生えてきてという土地にもかかわらず、緑化事業として植林をすると禿げ山になるという。つまり、わざわざ手を入れて雑草を抜いたり、耕したりしてしまうために雑草が無くなってしまうというのが現状らしい。そこを見事に緑化している中国人がいて、それは廟を作ってすると人々が宗教という名の下にちゃんと草木を育てようとすると自然と緑化が進んでいくという仕組みになっていくということに気づいて、それを実践してどんどんと緑化を進めているということらしい。ディスカッションの中でもあったが緑化をするために廟をたてるという間接的手法に行き着いたところがすごい、逆に植林をしたり雑草を抜いたりという直接的な手法をとればとるほど悪い結果になっていくというところが逆説的で面白い。ついでに本題とはそれるものの面白かった話題は、中国や韓国の人はそれほど定住していなくてそこに住んでいる住民をよくよく調べるとどこかから移動してきた人がほとんどであるという話。


4.いくつか個人的な感想
4.1アフリカの国立公園
結局生活と国立公園システムがそれぞれある程度の適当さをもつことで共存が成り立っているというところが良くて、つまりそこ既にある生活者を無視した制度の押しつけで自然が守られる訳ではなく結局誰もが心地よく暮らせる仕組みになるようなインターフェイスで相反しそうな生活と制度を接続する必要があるという結論なのだと思うが、それがかなり難しいということだと理解。
4.2複雑系社会
実験をすると理論どおりの結論が得られないのは実験や理論に間違いがあるのではなく、それは統計学によって考えるべきだという結論であったり、第三回の北野宏明氏の話であった”Robustness”と”Fragility”のトレードオフだったり、不確定性理論だったりで、ということを最近私自身がようやく理解し始めていて、結局物事は一意に確定的に語ることは出来ないということが肌身と理論の両方から強く感じているのだが、そのことをさらに別の側面から表現しているのが、この話だと感じた。揺らぎという不安定性によって安定性が生まれる。不安定にうろうろすることが生き残るという意味では安定的であるということ(まさに、”Robustness”と”Fragility”)。
4.3黄土の緑化
本当に問題を解決するために適切な手法は、そこに現在存在する生活様式をうまく利用していくべきであるということだろうか。ただ、この話の中でいくつかどうも納得いかないところもある。まずは、この中国人を始めとてもいい表情をしていてだからこういうことが発想できて結果が生まれてくるのだということをこの人が言っている点。それはまぁそうなのだろうが、そことこの帰結には相関性は無くて、そういう人がうらやましいことに足して、さらにそういったことを付け足しているだけのよな気がする。あとは、それらのどちらが鶏で卵かは不明であって、物事がうまく転がっているのを感じると人の表情は良くなるものだとも思う。ちょっとイメージで物事を考えているのでは?って感じた。さらには、感覚で素直に捕らえると自然と答えが出てくるものが、それが出来なくて多くの人は間違った答えに走る、一方でこの森作り名人の中国人は感覚で素直に捉えているから答えにたどり着いたという話もどうも納得いかない。人の感覚はしばしばその環境の影響もうけるし、で結果としてうまくいった人をみてその結果をもって、その人は素直な感覚で物事を捉えたからだというのは、どうも答えを知ってから評論をしているようにしか聞こえなかった。もしくは、私の理解不足。


5.全体
5.1強引なまとめに個人的な思いを付け加えて
全体を通していくとつまり、ある固定した結論に向かって固定した方法論ではだめで、その理由を考えると以下のようになっていくのだと思う。
まず、存在そのものが揺らぎによって存在していて、常に変化し続けることがまさに存在である。 
 宇宙の始まりにはある分布があってそれがきっかけで宇宙となったという背景もある。
 変化を認識しあうということがそもそも存在の本質的な意味であるとも思う(存在と時間)。
そういう存在であるが故に社会というシステムも固定したものと思いがちだがそうではなくどんどんと変化していく。
故に、計画も固定的なものであるべきではなく、常々の変化に柔軟に対応し続ける計画ではなければならない。
一方で、それらがでは各状況に対して手作りしていく一品もので在ることしか出来ないかというとそうではなくて、それらの変化し続けるものの中にもある法則性があってその法則性をアルゴリズムとして抽出して、変化の成分は変数として捉える。
そのようなシステムとすれば、固定された結論に向かった計画とはならないで変化に対して変化し続ける回答として有効性を発揮するのではと。
5.2さらに我田引水
というところから考えるとカフカベケットの作品(などこちらで紹介している文学作品)というのは、これらの発想をベースにしていると捉えることが出来ると思う。つまり、それらはそこにある固定した社会システムをベースに何かを描くということをしておらず、よく分からない何らかの上でさらによく分からない拘束を受けながら行動するところが描かれている。極端に言えば、池上高志氏の実験がコンピュータ上であるのに対して、これらの作家のそれは文章を利用しているのだと、まぁこれは極論だが。つまり、実は固定していない社会システムの上でさらに変化し続けるという意味合いが、うまく混じり込んでいると。特にベケットの作品はこのまさに揺らぎの部分だけが強調的に描かれた結果として、あのような独自のときに過剰な言語とときに過小な言語となっていると捉えることも出来るのだと思う。


関連リンク:
ICC
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ICC(Technorati.jp)
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