東国近にて、わたしいまめまいしたわ



回文

東京国立近代美術館にて、開催中(3月9日まで)の、”わたしいまめまいしたわ”という、不思議なタイトルのつけられた展示を見に行ってみた。冷たい強風の吹くある一日。


近現代美術

近現代美術を並べ直して、個人と他者との関係性を個人の側からの視点として捉えることが出来そうな作品を、いくつかのテーマの元に展示。現代美術と近代美術が混在した展示というのが、非常に興味深くて、しかも、なかなか成功しているという感じがした。


序盤戦

ある意味わかりやすい視点と言えばそうなのだけれども、最初は自画像から。最も認識が難しい対称の1つが自分自身だと思うのだけれども、そこから、自己認識ということの曖昧さを感じさせられる。そこから、澤田知子さんの証明写真のシリーズがきて、それが、自己の多面性であるようで、変化させようとしても残る自己であるようで、曖昧な存在なのだけれども、なんとなく形があるのが存在ということなのかなと思い始める。
そこから、高松次郎さんの作品で、物そのものであったり、文字そのものを扱う作品にたどり着くと、次に物質とは、文字とは、という問いに繋がる。つまり、人に限らず存在とはと展開したくなる。さらに、宮島達男さんと村上友晴さんの作品での文字というつながりで考えれば、文字として客観性を持ったものにしたつもりなのだけれども、文字自体もフォントであったり、明滅であったりというある種の文字以外の特性を持っていて、その形状そのものが何かの意味に繋がりえるところがあることに思い至るのだけれども、それも、曖昧な形態でありながら、ある範囲内の形態であるがゆえに、そのものの意味とそれに付帯した意味を持ってしまうということなのだと思い至る。


中盤から終盤戦

と、このあたりまでの展示の展開はとても心地よくて、しかも、最近多いインパクト重視の展示ではなくて、じっと考えさせるような展示の展開で、こういった静かな展示も時にはとてもいいと感じた。ただ、中盤戦以降が少しだれた感じ。単一の存在とは何か曖昧でありながら、それでも残るアイデンティティというところまで、テーマが絞り込まれてきていたのが、これ以降の展示で発散してしまったというような気がした。
多分、1つの要因は、他の展示でも何度か見たことのある作品が多くて、その作品に対して既に持っている印象があって、それをテーマが追い越していないというのか、作品に対する先入観がテーマを邪魔してしまったというかで、結果として、いろいろと集めてみました、という印象に終わってしまった感じ。このへんは、コレクションを中心に展開したことの影響かもしれない。
個人的には、こう序盤戦の持つとても思惟深い静かな展開を維持したまま、もっとミニマルな作品を並べて、最後に、高嶺格さんとキムスージャさんの作品で、少し派手さを持たせるようなそんな感じの展開が希望であった。


とはいっても

とはいっても、近現代の作品をある視点から並べた展示というところで、非常に面白い展示であることは間違い無い。春を前に、一度自身の内部に入り込んでみるというのも悪くはない事だとも思うし。

関連リンク:
dLINKbRING.Art.東京国立近代美術館
展覧会情報わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者
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