エモーショナル・ドローイングがとても衝撃的だった



東京国立近代美術館

現在、東京国立近代美術館にて開催されている(〜2008/10/13)エモーショナル・ドローイングに行ってきた。これが、なんともすばらしかった。
この展示は、アジアのアーティストをドローイングという観点から集めた展示。


一言で

一言でドローイングといっても、単純な絵画作品だけではなくて、アニメーションも含む作品。また、作品自体も具象とも抽象ともつかない作品が多く、そのモティーフも多岐にわたるというか、中心軸を定義できない感じ。


ポストモダン

時代の変化
で、全体的に見て思ったことは、ポスト・ポストモダンというか、モダン・ポストモダンというか、そういうような表現をしたくなるような時代が現代なのかもしれないと言うことと、そういった事が明確にこの展示を通して表現されているように感じたこと。
否定の時代
何がかというと、かつて、情緒であるとか、既存の決定的な価値観とかそういった物が否定されていって、ポストモダン的な価値観というのか、価値という物が崩壊した状態の中には、それぞれの個だけが存在して、それぞれの間をつなぐインタフェースがそれとは個別に存在していて、その結果として、社会の中であるべき形という概念は消え去って、一方で、個性という考え方自体も消え去ったある意味では孤立した、ある意味では独立した価値観が形成されていったのではないかと思う。
体系的網羅の限界
ただ、ここに展示されている作品はどうだろうか。確かに、羅列の展示方法をとっている作品もあるし、さらに、その羅列自体も体系的網羅というよりも、網羅することの可能性の限界を指し示すかのように、非体系的な乱雑な羅列を行っている。そう、これらの羅列の表現による限界性の表示はあまりにもポストモダン的にも思える、しかし、乱雑な羅列というところがとても重要で、これが一線を画す要因になっている。それは、単純に平面に羅列するだけではなくて、時間軸上に羅列することで、アニメーションに展開している作品も同様にとれるし、ユーザーに飾ることを要求する作品も、作家の意志による羅列の限界性を示しているかのようである。つまり、ここには、価値の崩壊であるとか、多様性の発揚や個別の個人のインターフェイスによる接続という概念自体の限界性が、恣意的にではないにしても、表現されているように思えてならない。そして、その個と接続による存在概念ではなくて、それとは違うある種の集合的な価値観が提示されているような気がする。
キャラクター化した個性
それは、奈良良智の作品にも代表されるキャラクター化された作品にみられる。これらのキャラクターの特徴は、単純化されすぎていて、最小公倍数的な没個性であるようで、しかし、個性を有していると言うこと。つまり、一度、最小公倍数として、個性であるはずのもをそぎ落とした上で、そこに個性が構築されていると、これがポイントのような気がしてならない。個性なんて元々備わっている物ではなくて、作り上げなければならない物であると、その結果が例え没個性的なキャラクター化であっても、一方で、キャラクター化こそが個性の反映であるという主張にも感じる。どういうことかというと、例えば、ファッションにしても、それは、やはり一種のキャラクター化であって、自分をあるキャラクターに押し込める行為であるのだけれども、それを適切に行えば行うほど個性的なファッションになるわけで、出たなりの姿では、それはすくなくとも個性的なファッションとしては捉えられないものであると。だからこそ、この一掃された後にしかし現れ出た物を重要視するのが現代の価値観であることが示されていると、つまり、乱雑な羅列は、本来の単純に個人を指し示していて、それは、ある種の没個性的な存在なのだけれども、その中から生まれ出て一つのキャラクターになったとたんに個性的な存在に変化すると、そうしたことが表現されているように思えてくる。たとえば、ジャパニメーションがはやるこの現代をもろに表しているようにも思う。
消えた絶対者の復活
それは一方では、死んだ神の復活と言うことなのかもしれない。我々は、相対空間では生きる事が出来なくて、絶対空間を常に必要とする。それは、宗教である場合が多いし、地域的な慣習であったり、家族であったり、哲学であったりするであろう。しかし、過去の様々な事情の中で、それらは否定されるベクトルを持ったものであった。しかし、やはり、絶対者が無ければ生きていくことの出来ない人々の要求が、やはりあって、ポストモダン的な価値世界の限界がやってきているのではと、だから、最初に、これこそが、ポスト・ポストモダンもしくは、モダン・ポストモダンなのかもしれないという言葉をあげたみたのであり、没個性的なキャラクター化による個性こそが、そして、乱雑な羅列こそが、その象徴ではないかと。


エモーショナル

そう、ここまできて気づくことは、この展示のタイトルが、奇しくも”エモーショナル・ドローイング”であるということ。情緒を廃したはずが、しかしたどり着いたのが、エモーショナルというその言葉であると、これは何処まで展示者の意図なのかは不明なのだけれども、とても、意味深い言葉の選定だと思う。我々は、良くも悪くも感情に引きづられ、そして、漸近線としてしか存在しない客観性に対して、肉薄しながらも、やがて、また遠ざかり、絶対者側へ近づいてしまう。それは、善悪の問題ではなく、それが人間社会と言うことなのだと。
20世紀の異人達が死して、そして、さらに、記憶の中からも薄れてしまいそうな時代。そこに、個人的には大きな時代の価値観の変化も感じていて、しかし、それは新たな何かの誕生の瞬間であるような気もしている。それは、エネルギー危機であると共に、もしかすると、電池の時代へと変化する第二次産業革命の到来なのかもしれないと。そして、ここにきて、21世紀を強く感じ始めているのが、私自身の感情。
その感情にとても共鳴する面白い展示であった。


関連リンク:
SEUNZE.com -> dzd12061 -> 展覧会情報現代美術への視点6 エモーショナル・ドローイング -> 詳細情報
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