Social であること。(その3)

ということで、少し日にちが飛びましたが、こちらの記事から引き続き三回目。
この回は、少し、Socialから離れてデータベースについて考えてみたい。

1.データベース性
既に以前の記事の中でも書いたが、データベースとしてものを考えるということは
万能の力を持つと、そう私には思えてならない。
なぜなら、人間の行っている様々な行動はデータベースを常に参照しながら、
その結果に導かれているというモデル化が比較的無理なく出来そうだからだ。
(まるで、AJAXMySQLを組み合わせてでもいるかのように)
そして、人間の持つデータベースには大きく分けると2種類あって、
一つは先天的なものもう一つは後天的なもの。
もっと端的に言うと、DNAとして運搬されているものと環境の中で
学習していくもの。ただし、一見簡単に区切られそうなこの二つの
分類も、実はそれほど切り分けが簡単ではなくて、例えば、学習するといっても、
学習することが可能である状態はDNAによって運搬されてきているはずだ。
であれば、随意筋と不随意筋の区別とでもいうべきもので、
可変なものとそれほど可変ではないものというべきかもしれない。
そして、そのデータベースを我々は日夜振る活動させながら行動している。

1.1入力支援
例えば、私がここでこの記事を書いている状況を考えてみよう。
このときに、いくつかのデータベースを参照しながら、
その結果を出力し続けていると表現できないだろうか。
まず、日本語を操作している。考えていることを適切な日本語に
置き換えながら、文章を並べていく。思考と言語の境界を特定の困難さはあるが、
少なくとも、いざ文章にするだんになれば、いくつかの言語の候補がまず浮かび上がり、
そして、その中からより適切なものを選択し、そして、それをさらに適切な
文法の中に置き換えていく。まるでAJAXの入力支援のようではないか。

1.2Asynchronous
さらに、今はパソコンで入力しているのだから、適切な操作を選択する必要もある。
さらに、この記事を書くためにはいくつかの知識が必要となる。
その知識も、脳の中の記憶というデータベースの中から、適切なものを選択し、
その知識を活用して、理論を構築している。その過程においては、まるでタグを利用して、
今議論しようとしている内容と合致する記憶(知識)を検索しているようでもある。
これが人と話をしている場合であれば、その話相手に関する情報や、その話し相手と共通の話題
を探しながら話をする。常にクエリをキックしてそれを受信している。Asynchronousに。
このデータベースが遂に外に出たのだと。勿論、今までも辞書があったし参考書があったし。
しかし、それとは格段にスピードと情報量が異なる。これがデジタルのデータベースの恐ろしさではないだろうか。

2.インターフェイス
そう、そして次にくるのがインターフェイスの重要性である。これは、画面表示という意味での
インターフェイスということではなく、もう少し拡大解釈したインターフェイスであり、
ここで言いたいインターフェイスとは、データベース同士の接続性である。

2.1弁証法ではなく
私は、かねがねから弁証法のごく初歩的な解釈である二つの対立概念から新しいものが生まれるという
考え方の中にある二つが融合した結果として新しいものが生まれるという考え方など絶対にないと
考えてきた。そして、それに対する解答がインターフェイスである。融合するのではなく、インターフェイスによって接続されて、異なる概念同士であっても情報の行き来が可能になることによって新しい考え方に
たどり着くことが出来るのではないかと考えてきた。人々は時々分かり合えるなどと言うが、それも、
別に融合したわけではなく、たまたま同じ意見を持っていたからこそ分かり合えるのである。
そもそも、異なる意見を持っていれば、それが分かり合うことはない。これは、養老孟司氏の「バカの壁
と同じ発想である。そして、私は一はどんなにがんばってもその「バカの壁」を越えることは出来ないと思う。
しかし、だからといって常に対立するわけではない。異なるものであるということを認識して、
その異なる発想を無理に融合しようとするのではなく、それをインターフェイスによって接続し、
それまでそこで途絶えていた情報の行き来を活性化させることがもっとも前に進む力となるのではないか、
そう思うのだ。

2.2大局的最適
これが、一体何故データベースと関連するのかである。まず、先の例で人が分かり合えるという例を出し、この人が分かり合えるとう状況はつまり意見が元々同じであるからだと書いた。これはどういうことかというと、
もともと、同じデータベースをその分かり合った人々が共有していたからなのだ。
世の中に絶対的な真理などは存在しない。その中で分かり合おうとすれば、それは
局所最適でしかあり得ない。そして、その局所最適はつまり同じデータベースを持つと言うことからくる。
しばしば、ジェネレーションギャップという言葉が出されるが、これこそ、
まさにデータベース(先述のデータベース区分で言えば後天的データベース)の差異である。
つまり、局所最適で議論すると言うことは同データベースの中で議論しているだけということであり、
本来の大局的最適を議論しようとすれば、他のデータベースとの接続が無ければならない。
そこで、必要となるものはインターフェイスであり、これによってデータベースが接続されて、
大局的最適を見つけ出す可能性が広がるのではないだろうか。
いわば、良いものを作ろうとすればお金をかけてでも良いものを作ればいい。とするのが局所最適。
しかし、一方で売り上げを上げようとすれば安いに越したことはない。
結果として、この二つの概念をインターフェイスによって接続してその最適解を
求めていけば、本当に最適なものができあがるはずではないかと言うことである。

3.具体的事例
さて、ここで、二つの重要な概念「データベース」と「インターフェイス」が出そろった。
しばしば、有能な人間にある特徴として、かなりの広範囲な知識を持っているということがある。
これは、つまり、多くの「データベース」を持っているということにもなるが、
さらに、有能な人間はこれらの多くの知識を巧みにつなげて、議論する。
これが優れた「インターフェイス」を有するということでもある。
そして、世の中にニッチな分野というものが存在するが、それらはしばしば、
細分化された技術分野の境目に存在する。
これもまた、「データベース」と「インターフェイス」であり、既存の技術分野が
「データベース」であり、その境目が「インターフェイス」である。
そう、この具体的な世界でも見られる優れたコンビである「データベース」と「インターフェイス
がまさにデジタルの世界で新たな可能性へと拡張されようとしているのではないのかと、
そう思うのだ。この考えこそがまさに私自身のWeb2.0に対する興奮の源泉であり、
単に、ネット上で多くのものが入手できると言うことだけではなく、
これらによって、またまさに新しい何かが生まれうるのではないだろうかと、
そして、その生み出しうる可能性を多くの人が今手にしているのではないだろうかと。