インターフェイスの可能性:創造の接面を探る : ICC

0.メディア・テクノロジーと生成する<知>
東京初台のメディアアート施設、NTTインターコミュニケーション・センターICCにおけるパネルセッションシリーズ「メディア・テクノロジーと生成する<知>」3回シリーズの第1回は、インターフェイスについてで、2007年6月9日に開催された。
矢内原美邦岡崎乾二郎、郡司ペギオ幸夫という3人ゲストに四方さん。
いつも通り、まずは、それぞれの人からプレゼン、そして、ちょっとしたディスカッション。


1.その前に
その前に、簡単に今回のテーマ、インターフェイスについてまとめておこうと思う。今回のセッションでも、インターフェイスがテーマながら、それぞれに少しずつ異なるインターフェイスの概念を元に議論しているように思えたので。
1.1インターフェイスとメディア
まず、若干混乱しそうなのが、インターフェイスとメディアのちがい。メディアは文字通りというか、表現の媒体そのもの。ただ、媒体は表面に出てくる物なので、それ自体がインターフェイスであるかのような錯覚もしがち。だけれども、メディアは材質とでもいうべきもののみで、ダンスに対する舞台もしくは身体であるとか、テクストにおける紙、映像におけるコンピュータがメディア。で、インターフェイスはその上にのったもの。
1.2もう少しインターフェイス
で、そのインターフェイスとは。コンピュータでいうと、画面そのものであるGUICUIなどの操作系が比較的身近な事例、あとは、例えばプリンタケーブルの接続部などもインターフェイス。このあたりから、インターフェイスは何かを考えるのが手っ取り早いと思う。
1.3なぜ、インターフェイスが必要か
何故か。もし、全てをダイレクトに伝達出来るのであれば、インターフェイスは必要はない。だけれども、パソコンのGUIで考えれば、インターフェイスなしでは、多くの人にとって、パソコンの操作は不可能になるだろう、つまり、翻訳機能としてのインターフェイス。それから、ケーブルの接続から考えれば、それは、汎用性の確保。つまり、インターフェイスをオープンかつ共通にする事で、多様性に対応できる。それから、同時に既にそこに決められているルールを利用する事で、繰り返し可能な物になる。インターフェイスを介さなければ伝達がほぼ不可能にある場合と、インターフェイスを介する事で、分業可能性を確保したり、異なるものを接続可能にするということ。
で、つまりは、まとめてしまえば多様性の確保であり、本来それぞれが独自に存在する物を、その接続部のみ共通化して他者との伝達を容易にするための物と定義しておけばとりあえずいいのではないだろうか。
1.4ちなみに
ちなみに、人間そのものも一種のインターフェイス的機能を利用していて、脳へ伝送される情報は、それぞれの感覚をインターフェイスとして伝送されてきた情報が、細胞の反応から、脳へ接続されていく。この過程を考えたときに、アナログである外界の情報過剰のため完全伝達不可能な状態であって、それを各感覚器と脳が取捨選択し、理解する。要するに、伝達不可能であるという事実が、インターフェイスを常に要求しているともいえる。


2.矢内原美邦
ということで、長すぎる前段を終了して、まずは、矢内原美邦さん。ダンス集団nibrollの主催者で、昨今のダンスシーンでは注目な人材らしい。
で、内容は、そのnibrollでの活動の映像を中心にまずは、映像紹介。特に、身体表現を中心にした生演技としてのダンスを映像作品としてアーカイブとの融合作品、演劇、などなどの活動から、表現主体を身体、言語、デジタルとインターフェイスを変化させながら情報伝達を行っているとも捉える事が可能。話しの中であった、何にでもなりうるという身体のインターフェイス性というのが、若干、しっくり来ないと感じた表現で、何にでもなるというよりも、様々な情報を伝送する可能性を持つ身体のインターフェイス性というべきではないだろうか?


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3.岡崎乾二郎
表現者であり、批評家である、岡崎氏の話で、ポストモダンダンスのトリシャ・ブラウンとのコラボを中心に。インターフェイスとして、何処まで捉えるか。例えば、美術作品がインターフェイスなのか否か?美術作品をインターフェイスとして捉えたとたんに意味が変化してくるということ。確かに、インターフェイスであれば、それはその作品が表出している事以上のことを伝送している(最初にまとめた内容をインターフェイスの定義として捉えればそうなる)。それは、メタ的な意味を持つという事とはまた違って、メタ的な意味であれば、美術作品がインターフェイスではないとしても存在しうる。それよりも、多義性というところに関連するのだろう。インターフェイスであれば、より多義性を実装しうる。それから、作品がインターフェイスである場合には、そこに捉えられるべきは、精神性ではないかという議論。あと、インターフェイスであるということは、そのインターフェイスの部分のみを捉えるのではなくて、インターフェイスを通して相互伝送されるものが存在するという事に注目すべきで、つまり、作品がコネクタとしての存在になっているかどうかという事として私は捉えてみた。となると、それは、作家自身のみならず鑑賞者側からのアプローチも必要になってくるということで、そこに、どのようなインターフェイス(作品)を用意するかで作者は間接的に鑑賞者を選択していると捉えるのは、少し考えすぎだろうか。いずれにせよ、この辺はとても面白い議論で、多分、インターフェイスとして成立している作品とそうではないものには、根本的な差異があると思う。


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4.郡司ペギオ幸夫
最後は、科学者の郡司ペギオ幸夫さん。これが、またかなり面白い内容。ある条件を設定した物体の動きから、生命を考察するというところで、細胞的物体をプログラムで定義して、その定義条件の変化と挙動の関係を考察する。ここで、面白いのが、細胞的物体の内部に取り込まれた外部が再び外部へ排出されるというプログラムにおいて、一度内部に取り込まれた外部の通り道を傷として定義すると、細胞的物体の構成崩壊が発生しにくくなるというプログラム挙動。で、これをベースに物を考えると、内部に取り込んだ外部が起こす傷(相対的な違和感)の存在が引き起こす生命力という発想を生み出す事が可能ではないかと。この傷のインターフェイス性についてなのだけれども、内部に入り込んだ外部である以上、それそのものがインターフェイスになるわけではなくて、内部に一度取り込まれて再び外部に排出されることによって、そもそも境界として存在していたインターフェイスが変容すると捉えるべきだと思う。つまり、そもそも外部との接続としてのインターフェイスが、恒久的な物ではなくて、外部影響によって、そしてその影響とは、外部との接触としての影響ではなく取り込むという行為による影響によって、常に変容し続けるものであるというところ。この変化については、養老さん的にいえば、常に変化し続ける脳という存在ともとても、親和性があってイメージしやすい概念。また、岡崎乾二郎氏が言っていた一日のうちに出会った同じような人が同じ人物かどうかだけれども、自分自身も変化していて明確化不可能という話しもこの概念につなげるとしっくりくる。


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5.インターフェイス再び
で、その後のディスカッション。だけれども、だいたいディスカッションのなかででた内容は、上記にまとめて入れてしまったので、ここではもう述べる事はなくなってしまった。ので、ここでは、もう一度インターフェイスについて。インターフェイスは、とても重要な概念で、個を中心においた世界形成では、とくにインターフェイスが重要になると思う。ある意味では、インターネットがパソコンというインターフェイスによって、個を接続していっているとも捉える事が可能で、ただ、この接続は、ただコミュニケーション可能性の接続であって、思想の接続には繋がっていないところがある。その部分に介在すべき物の一つとして、芸術という物が存在するような気がする。そして、それは、デジタル配信技術と相まって、メディアアートの存在場は拡大するようにも思う。一方で、場が主体となる作品の場合には、例えメディアアートであってもデジタル伝送性はむしろ障害になる。ただ、文学というものの発展はそもそも、テキストという複製可能であるという可伝送性が重要な特性であったと捉えれば、メディアアート化してデジタルアーカイブ化可能な作品のもつ特性も同様なというかそれ以上の可伝送性があるといえる。その意味では、矢内原美邦氏の舞台作品を映像作品として場の作品から複製可能なデジタル作品へと展開したというのは、一つのインターフェイス転換の重要な試みのようにも思う。


関連リンク:
ICC Online | ICC開館10周年記念セッション・シリーズ Vol.2 連続シンポジウム「メディア・テクノロジーと生成する〈知〉」
dLINKbRING.Art.NTTインターコミュニケーション・センターICC
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Rogi073.Diary - ICC:特別シンポジウム「メディア×アートの創造と未来」1日目
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関連サーチ:
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