ドイツ写真の現在 ― かわりゆく「現実」と向かいあうために 東京国立近代美術館

東京国立近代美術館にて、2005/10/25〜12/18まで
開催中の「ドイツ写真の現代」展行ってきました。
こちらは、先日紹介の記事シグマー・ポルケ展などと同様
日本におけるドイツ年の企画の一環でもある。

これが、またすばらしく刺激的な作品が多く展示されていて、
非常にいい展覧会でした。
個人的には、特に印象的だったのが
「ロレッタ・ルックス」と「アンドレアス・グルスキー
「ハンス=クリスティアン・シンク」。
また全体的に感じられるのは虚構と現実の関わりであり、
それは単純に現実と想像という意味ではなく、
実のところ我々はまともに現実を捉えることが出来ておらず
そのため、現実をイメージによって虚構によって
補いながら現実を判断し存在している。その意味での
虚構と現実の関わりなのだが、そういった印象が
様々な形で各作家の作品の中に
見事に浮き彫りにされていると思う。
副題「かわりゆく「現実」と向かいあうために」は、
それ故に見事なタイトルだと思う。
出品作家とおおまかな感想は以下。
若干ネタバレ気味なので要注意。

ベルント&ヒラ・ベッヒャー
おもに原料工場の写真で、同様の機能を持つ工場の写真を
様々な場所で撮影し、それらの類型的な形状を並列させる
連作もしくは並列はさせない単品のみのものを展示。
やはり圧巻は、「採掘塔」15枚の類型並列。
大量生産工業としての無機質さと荒廃感がイメージとして
先立つのだが、そういった印象はなく、むしろ、その造形が
なんともいえない形状の美しさというのかおもしろさと感じられる。
その存在として本来意味を持っていながら、その意味とは別の扱いとして展示されて存在するという、そして、場合によってはそれらは、
既に古びた産業であり既にその本来の意味としては存在していないかもしれないという。この存在と意味とは。

アンドレアス・グルスキー
日常生活にある光景を切り出した作品。
その作品に共通するものはある器の中に大量の存在がほぼ同じ目的のために
存在する状況の切り出しであり、その器の持つ幾何学的な美しさと
そこに点在している様子が鮮明な画像で映し出されているが故に
その大量の存在に対する批判として移るのではなく、そのような存在である
というある種の肯定性さえも感じさせる。これは、この現代社
に対する一つの存在に対する考え方を突破(妥協?)する一つの態度でもある
ように思う、その善悪は別として。そういった思想に対する問題定義ともとれる。

ミヒャエル・シュミット
新聞の切り抜きの接写のようなものから、日常の光景、一般人なのか
有名人なのか判別出来ないポートレイト。とにかく、日常の様々な断片を
集積して提示している。そこにある独特の重さの共通性が語る何か。

トーマス・デマンド
実物大模型を撮影した作品。模型の題材は何か思わせぶりな光景
ではあるものの、模型であることと撮影の仕方によって現れる
その雰囲気の妙な白々しさがなんとも落ち着かない感覚を植え付ける。
こういった何かあるようで何も無いような重さを欠いた意味と形象は、
この現代に漂う雰囲気でもあり、象徴的でもある。

ヴォルフガング・ティルマンス
ポップな感覚を感じさせる作品。共通性の無い作品が壁の至る所に
貼り付けられている作品が象徴的でステップの軽さをみせながら、
一方で何か思わせぶりな意味がありそうなところが面白い。
そういった雰囲気を発散しながら突破していく感覚が強く表れる。
空を見上げる青年を下から煽って撮影した写真が印象的であり、
全てを表しているようにも思う。

ハンス=クリスティアン・シンク
ベルリンの壁崩壊後に行われたドイツ交通統一プロジェクト。
要は大規模な公共工事による交通の整備の様子を納めた写真。
そこにはその行為に対する批評性もあるのかもしれないが、
私自身はなによりも見事に切り抜かれたその造形の美しさばかりに
目を奪われた。政治的行為による大きな影響を、一方で、
そのように美しさとして捉えて、そこにばかり目を奪わせることで
その政治的行為に対して立場を明示できないままに
(我々はますます開発と変化に対してものをいえなくなってきている、
 環境の問題も解決されて、それなりに発展というメリットを
 提示されたとき、我々は何によって何を発言すればいいのだろうか、
 それだけ価値の基盤は薄くなってきているのが現実では)
価値を転換させて納得してしまう我々自らの様子がさらなる反射として
描いているというと読み取りすぎだろうか。

ハイディ・シュペッカー
建造物と植物の関連性。過剰に接写された樹木のその後ろにある
色彩は、何かの壁なのか。あまりににもミスマッチな様子が、
まともに感覚にやってきて結果としてその写真をみるとなんだこれは
としか思えないこの感覚を見事に喚起している。

べアテ・グーチョウ
一見普通の風景写真のように見えるが実はいくつもの風景の
デジタル合成。絵の場合は作家の頭の中で行われることが
しばしばある情景の合成(アナログ的)だが、このようにデジタルで行われると
違和感を感じてしまうところに未だにデジタルに偏見を持ってしまう自分を
認識する。その一方で、このデジタル行為を否定すると発生してしまう
その過去のアナログで行っていたその行為の否定。つまり否定することが出来ない。
結果として過去の価値をもふらつかせてしまうという影響さえも持つ行為であり、
そのデジタルの影響力を感じる。
(我々は時にデジタルを批判的に扱いながらもその影響力により
 多くのものが変革されていきその恩恵を大いに受けている現実。
 我々は確実にこれからますますデジタルと共存する。)
また、そこに映し出されている光景に残る平穏のような白々しさのような
感覚は、これもまた現在の現実に対する多くの人が持つ
実感でもあると思う。

リカルダ・ロッガン
使用されなくなった建物からその家具を持ち出してそれをスタヂオ内に
その元の状態のように配置して撮影した作品。
場所によるものの存在意義、つまり別の場所における
その違和存在が、継続性と変化に通じる。
それが東ドイツ的なのかもしれないが、より拡張して永続性よりも
変化の中に存在するという状態が常態となり始めた現代社会における
様子にも通じているように思う。
ベルント&ヒラ・ベッヒャーに通じる部分とトーマス・デマンドに通じる
部分とが混在する。

ロレッタ・ルックス
私個人的にはもっとも衝撃的な作品。
少女の写真を非常にイメージの卓越した童話的世界に
配置した作品。
どこまでデジタル処理によるのかわからないがいずれにせよ
写真をベースにしているにも関わらずイメージの卓越した世界
がそこに在るということが衝撃的。
精巧に出来た人形にはしばしば不気味さを感じるがそれとは
また少し違うが同系列にはいる不気味さを感じさせる。
ただ、それが何かというと、わからない。
イメージ化されてその個性が消えている様子によるのか、
その目の無焦点な様子が物語る寂しさなのか。
一瞬かわいいきれいな写真と思わせながらさらに見ていると
感じ始めるこの妙な不安感が何ともいえない。

東京国立近代美術館:ドイツ写真の現在 ― かわりゆく「現実」と向かいあうために/アウグスト・ザンダー展.