メルラーナ街の混沌たる殺人事件を読んだ



ガッダ

ついこの間、再刊となった、カルロ・エミーリオ ガッダによる作品、「メルラーナ街の混沌たる殺人事件」を読んでみた。カルロ・エミーリオ ガッダは、イタリアの文学者で、前衛的な作家として知られる。日本で刊行されている作品は、少ない。故に、日本では知名度が低く、私もこの作品があらたに刊行されたのを機に知ることとなった。


謎解き

事件は、その通り、メルラーナ街で起きる。あるアパートメントでの事件、そして、それに続く殺人事件。そして、その事件に携わる警察とそして、その事件にまつわる人々のエピソードで物語は彩られていく。


迷宮へと

エピソードは、どんどんと混沌としていく。殺された婦人にまつわる数々のエピソードが、徐々に明るみに出始める。怪しく感じられる幾人かの人々のエピソードがさらに深くえぐられていく。過去に向かって、様々な縦穴が掘られていくように物語が進む。しかし、その穴は右往左往しながら、やがて事件との位置関係が不明確になるほどに混み合っていく。


迷宮

よく、カフカ的迷宮という言葉があるけれども、この展開を読んでいるとダッガ的迷宮とでも呼びたくなる迷宮に入り込んでいく。カフカ的迷宮が、そこにあるシステムの迷宮性であるとすれば、ダッガ的迷宮は、そこに数多くの人間が関わるが故にできあがってしまう必然的な迷宮という位置づけ。例えば、取り調べを受けている人がどこまで本当のことを行っているのか、そして、警官のほうは、それは思い込みなのか、真実を言い当てたのか?過度な恣意はないままに、ひたすら迷宮が入り込んで行ってしまう、そんな状況を表しているようにも感じる。


何を書きたいのか

そう、何を一体書きたいのだろうか結局、と、そんなことをこの作品の端々で感じるかもしれない。そして、その疑問は、メタ文学を楽しむ上での、第一歩となる疑問であり、非常に貴重な感覚である。そう、結局一体何をこの作者は書きたいのだろうか?という疑問を考えることに、メタ文学の最大の楽しみがあり、メタ解釈の楽しみがある。そう、このダッガ的迷宮なんか描いてみてだからなんなのだろうか?


決定できない

決定することの困難な事象にまみれているのが、この生命活動そのものなのかもしれない。しかし、そこに、人類は、様々な法則性による整理を持ち込んで、そして、ついには全てが決定論的にできあがっているという幻想を抱く場合もある。しかし、ここに描かれている世界は、むしろ、決定することの不可能な世界が描かれている。そこに、私は、この作品の面白さを感じた。そう、そんなことがこの作品によって描かれていると感じたわけです。


面白さ

そんなふうに、文学を読むという体験を通して、脳を大きく飛ばして、考えてみるというのは、本当に面白い経験だと思います。なかなか、読むのが困難な作品ではありますが、その困難さと対峙しているとやがて、脳がスカイハイの領域にたどり着けるかもしれません。


関連サーチ:
メルラーナ街の混沌たる殺人事件(AMAZON.co.jp)
メルラーナ街の混沌たる殺人事件(Google)
Powered BY AmazoRogi

メルラーナ街の混沌たる殺人事件 (フィクションの楽しみ)
発売元 : 水声社
発売日 : 2011-12 (単行本)
売上ランク : 458540 位 (AMAZON.co.jp)
¥ 3,675 在庫あり。
Powered BY AmazoRogi Data as of 2012-06-07
See detail & latest visit AMAZON.co.jp