自然を変換してアートとして扱うこととは



ふらりと

東京は初台のオペラシティーに展覧会を見に行ってみると、そういえば、今回は、結構頻繁にアーティストトークがあって、そして、デイヴィッド・ダンのレクチャーとトークが実施されていた。
残念ながら、気づいていなかったために、ほとんど聞けなかったけれど、最後の方だけは聞けたので、そのあたりから少し感想。
ちなみに、聞き手は、藤枝守氏と柿沼敏江氏、あと客席側に銅金裕司氏がいた。


長引いていたらしい

私が到着した時点では、客席はまばら、関係者もそれなりにいるという感じ。だけれども、ダン氏が話し好きだったためなのか、予定よりもだいぶ長丁場だった様子。


中身、その前に

前半は、いろいろと音源の再生とかをやっていたみたいだけれども、それは見れずで、トークのところのみ。
その前に、今回の展示がサイレント・ダイアローグを簡単に。植物や動物の様々な活動を信号として読み取って再生するなど、動植物の生命活動を何らかの形で人工的な処理の部分とリンケージ、変換し、人間の近く可能な物にするという作品の展示がされている。こちらのほうの感想は近いうちにエントリーします。
で、デイヴィッド・ダン氏もそういった生物活動を利用したサウンド作りをしている。


コミュニケーション

生物の存在は、どこかの政治家の発言ではないけれど、自立と共生によって成り立っている。というのは、これは当たり前の話しで、自立か、共生しか存在形態はないから。で、この共生の部分を読み替えるとコミュニケーションとなる。このコミュニケーションによって、自立した部分の情報を交換するというのが生物の存在。これは、個人と社会の関係性とも相似性がある。
自立した存在であるために行っている生物の活動の部分から、情報を取り出して再現するという行為を、芸術として扱うという事がどういう事なのかということが主な話題。コミュニケーションというと人間からの観点からすると、言語がコミュニケーションの第一の道具。まずは、その言語にたいして、前言語(Proto Language)の存在についての議論、そして、そこにある音そのものによるコミュニケーションの存在とその意味の拡張。
この辺の話しは面白いというか、どこからコミュニケーションになるのかという問題提議と捉えると、動植物を利用した作品の意義も少し見えてくる。例えば、動植物のある種の活動をモニターしてそれを変換して人間が捉える事の出来る状態にして出力するという作品が何を意味するのか。それが、コミュニケーションであるといっていいのだろうか、たとえば、人間が植物に触れる事によって発生する何らかの変化を音として出力する行為、それは、コミュニケーションを表現しているのだろうか?それが、コミュニケーションなのだろうか。それは、ただ、ある種の電気信号を人為的に変換したに過ぎないのではないのか、では、植物の変化は何を意味するのか、動物の鳴き声は、何を意味するのか。それは、人間との接触とは関係なしに存在するのかもしれない。であれば、それを変換したところで、それは、コミュニケーションではないのかもしれない。きっと、そういった観点で、作品を鑑賞し考察すべきなのだという事なのだろう。
少なくとも、人間の中でもある種の周波数信号と光信号が、サウンドとビジュアルとして、認知される過程では、それらの周波数が電気信号に変換されるという過程を経る事になる。それを、ある種のデバイスにダウ要させたときにという、作品提示は人間の知覚とはなにか、もしくは、生物が発生させる状態変化、最も端的に表れるのは鳴き声など、は、それはなにを表現しているのか、どういったコミュニケーションを提示しているのかという事を考えるというのはかなり興味深いテーマだと思う。こういったタイプの作品が得てして、動植物も音楽を奏でているのだとか、それによって一風変わった出力が得られるとその奇妙さだけに興味が行くとか、そういった事になりがちなのだろうけれど、ある種の出力としては、そういったエンターテインメントな観点もいいけれど、やはり、その出力にいたる変換過程が一体どういったコミュニケーションをディスクライブしているのかということを考察するのは重要な事だと思う。


全てを利用するわけではない

少し、内容から私自身の考えの方に論点がずれてしまったけれど、もう一度、内容のほうに戻る。もう一つ、今回のトークの中で面白かったのは、人間には可聴域が歩けれども、可聴域外の周波数にも反応する機関とそれに対応した細胞が在るかもしれないという議論が面白い。そもそも、脳は、アナログ情報を電気的に扱い、それを時間処理するわけだから相当の情報処理を行っている(アナログ情報とは何か、デジタル情報との境目は何かについては非常に重要かつ難しい課題なので、こちらの議論も今後のエントリーの中で触れる事になると思うが、ここではとりあえず曖昧にアナログ情報とする)。ただ、実際には、それら全てを処理しきる事が出来るわけではなく、その結果として、ある部分の情報は処理されないらしく、これが錯覚の要因になるという(オライリーから出ているMind Hack参照ください)。この可聴域ももしかするとそうかもしれない。そこから、もう少し勝手な類推をすると、生物はそれぞれの段階でOSとしてある程度の機能の可能性をDNAの形で保持しているのだけれども、その中から選択的に機能利用して、その存在を確定しているのかもしれない。言い換えれば、保持する肉体と脳にあわせた機能だけが取捨選択されて生物体を構成しているのではないかと。このあたりの事を理解しながら、生物の認識領域が指し示すコミュニケーションの特性を考察するとこれはなかなか興味深い事になるような気もする。


その他にも

その他には、ジョン・ケージとの対話に関する話しとか、芸術と科学の関連性など面白い話題がいろいろとでなかなか面白かったです。


久しぶりに

こういった異分野でいろいろな事を考察する人の話を聞くのは結構久しぶりなのだけれども非常に、やはり、面白い。
一時期、多忙によって精神的にも肉体的にも疲労して、そういった元気はないけれど、これからも、こういった異文化情報の収集による脳への刺激を続けていかなければならないと強く認識した一日でした。


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