自分のために生きるという事



1.ネット議論
最近の議論に触発されて。私の思い。私自身で思うのは、自分のために生きるという事が如何にすばらしいかという事。そして、人は図らずも生まれながらにしてある特性を持って生まれてきて存在しているという事。そして、さらに成長過程の環境に大いに影響を受けて、そして、自己が変化しながら自己となりその時点の自己となっているという事。その自己は、単純に確率論として考えても千差万別。そこに共通項を見つける事は不可能。ただし、自分のために生きるという事に関しては、これは万人に共通する事だと思う。


2.人のためと自分のため
時に傲慢な人はいる。自分の成果のために、他人が犠牲になっても知らない。責任はとらないけれど、成果はとるという人。しかし、こういう人々を見て思うのは、本当に彼らは自分のために何かをなしているのだろうかと。それは、ある評価軸に対して、自分が評価されるように振る舞っているだけで、それは、自分が本来やりたいと思う事なしていない。もしくは、自分の実力をある意味把握していて、自分のやろうと思う事が出来なくて、ある評価軸の中で無理矢理評価されることを望む人の行動だと思う。
しかし、本来的に自分のためということを考えれば、それは評価軸とは全く異なる事だと思う。それは、先ほど書いたそれぞれの生まれ、生い立ちによる個性であり、その結果として導き出されてくる何かは、自分のためであり、それは、他人をけ落としてという事ではなく、純粋に自分のためであるはず。そして、多くの場合、純粋に自分のために行った事は多くの人に役に立つ。


3.格差社会
そして、それを証明しているのが、web2.0の流れだと思う。一方で、企業社会が作り上げてきた他人を欺いて成果を出すという行為は、結局社会の損益的にはマイナスであって、局所プラスを出すために、多くのマイナスを生産しているに過ぎないと思う。その結果格差社会が生まれる。ただ、一方で、自分の中で悩むより、ネットで同じ悩みの人を探して、回答を共有したり、逆に自分が得た何かをネットで共有するという事は、これほど社会のためになる事はないし、個人の立場からいえば、自分がやりたい事をやるために、ネットから知識を得て、その結果として得たものを、公開すると、いつの間にか他人に役立つというのは、これほどすばらしい循環はないと思う。そして、やはり、それはweb2.0のパワーだと思う。もはや死語になりつつあるけれど。


4.特許なんていらない
そして、私自身は特許なんていらないと思う。勿論、投資に対する赤字にならない程度のリターンは必要だけれども、それも、ドネーション対応で良いのではないかと、つまり、オープンソースの発想で。特許で囲い混んで、自分だけの成果を得ることに、何の意味があるのかと。時に、個人と会社で特許紛争があって、私自身一時個人を応援する気持ちだったけれど、今は、どちらも罪だと思う。


5.一人ではなしえない
どんな事も、一人ではなしえない。これは自明の事。人類に限らず、多きの生物が食物連鎖も含め、集団によって成り立っているのだから、これは、一人という事はあり得ないという事を意味していると思う。そして、一人ではなしえないという発想をもてば、その成果を過剰に評価のためにアピールしたり、特許で囲い込もうという発想は無くなると思う。


6.自分のため
だから、自分のため人々は行動すべきだと思う。例えば、井戸を掘りたい人がいて、井戸がないと困る乾燥地帯に住む人がいるとする。掘る人からすれば、是非とも掘りたくて、それがそこに住む人々の役に立つのであれば、これに超した事はないと思う。井戸を掘ったけれど、誰も使わなかったというのでは悲しいし、一方で、井戸を掘った結果地下水脈を破壊しただけというのも悲しい。井戸を掘って、そして人々の役に立つ、これに超した事はなくて、これこそ、自分のための行動、そして、それが結果として多くの人に役に立つという循環のスタイルでは無かろうか。
だから、私は、純粋に、自分のために行動することを賞賛したい。金銭的な意味ではない、精神的な満足のために人々が行動すれば、よりよい世界が生まれるはず。そして、そのときの動機付けは、組織ではなくて、自分自身の持つ個性の主張に従う事。それだけだと思う。ある種の性善論に立った意見だけれども。そして、それをネットは加速させてくれると思う。いずれ巨大企業なんて無くなってしまえばいいと思う、そして、巨大企業の看板だよりに生きている人間についても。


7.だから個人
だから、個を強く持たないと行けないと思う。集団の波に呑み込まれないように。それぞれが異なる意見を言う状態ほど良い状態はない。個人の意見が発生せず、集団としての意見のみに支配されはじめるとそれは崩壊の始まり。我々は、社会的生物かもしれないが、個人である。