安部公房全集 完読

結果的に10年ほどの歳月をかけて、遂に安部公房全集全29巻を完読した。
安部公房全集を読み続けると言うことが完全に習慣化してしまっていただけに
読み終わったという感慨と同時に若干の寂しさもあるような。


そして、一つだけとても残念に感じることは氏が晩年構想していたという
アメリカ論」が完成しなかったと言うこと。
何故人々がコーラに飛びつくのか?
そこに在るのは過去との断絶であるが故に、若者が惹きつけられると。
その論点をさらに深めていけば・・・というような記述があった。
そして、それを「アメリカ論」としてまとめたいと。
とても重要な観点だと思う。我々はどの程度伝統に可能性を感じているのだろうか?
Webがweb2.0という新たなフェーズを突き進んでいる現状、梅田 望夫がウェブ進化論にて指摘するような
さらなる世代間格差が生まれようとしている現在にも、これは
見事に当てはまるように思う。何故、webに若者が惹かれるのか。


そもそも、安部氏のその幼少期の境遇に要因があるのかもしれないが、
氏は一貫して、固定した何かを足がかりにすることをしない。
それは、氏の作品の中にある定まらない対象性や特異性にも
現れているが、この全集に収められている数々の評論・対談などにも
色濃く表れている。
私自身も、結局安部氏のこのあたりの発想がしっくりとくるが故に
安部氏の作品が好きでたまらないのだと思う。
安部作品の変遷を少し頭の中で時系列に並べていくと


都市での迷子の様子を描いた作品
 ↓
都市における拘束状態から抜け出そうともがく作品
 ↓
都市を逃れて生き延びよとするがしかしうまくいかない作品
 ↓
都市の中をひたすらに迷い続ける作品


こうなるのではないかと私には感じられた。
まるで循環しているようではあるが、しかし、元に戻ったわけではない。


最初の都市に対する認識
 ↓
その中での個人の存在の追求
 ↓
群衆に対する個人ではなくただ個人であるという都市の認識


という変化ではないだろうか。
多の中の一ではなく、ただの一の集積であるということ。
多は一によって構築される。人は社会的存在であるということは、
人は社会の中に生きているのではなくて、社会を構成する生き物であるということ。
それは、クレオールを発生させる能力を持つ人間に焦点を当てた安部氏の
晩年の考察とも繋がってくるということなのではないだろうか。
養老氏的な表現を使えば、人間は脳による社会を作り出す存在であって、
まさに唯脳論なのだろう。養老氏の著作からは、人はある程度
その脳化社会から外に出るべきであると書いてあるように(超バカの壁
、少なくとも私には、読み取れた。
しかし、そうではないのではないだろうか。
脳の中の社会をある程度突き進むしか無いのではないだろうかと、
そのように思えてならない。
そして、人は、特に若者は、それを望む。
だから、伝統に縛られていないものを好む、webがはやる。
特にwebは多の中の一という感覚ではなく、
一の集積という感覚が強い。
明確な関係性なしに、様々なものが公開されている。
このblogにしても、一体誰のために著者は書いているのか。
多の中の一であれば、それは非常に重要な問題になるが、
一の集積であれば、ひょっとしたら誰かが・・・という程度でいい。
かなり我田引水かもしれないが、安部公房にはwebが似合う。


安部氏の作品は後期になればなるほどさらに自由になっていっているように思う。
であるが故に、「飛ぶ男」が完成しなかったのかもしれない。
そもそも、いわゆる物語という概念から遠くにある安部作品
であるが、しかし、依然としても物語的ではあった。
それが、あまりに自由であることを許容しすぎて、
まとまるという概念さえも困難となっていったのではと想像したくなる、
全くもって筆者の勝手な妄想であるが。
ただ、その先に安部氏が何を生み出すかというのも見てみたかった。
それは、言葉をどんどんと削っていったベケット的世界になっただろうか。
わからない。
きっと時代は変わる。おそらく、常に変化を続けている。
気づけば、時代の潮流から離れてしまっているという状態になりうる。
特に、過去の成功に縛られていればいるほど。
だから、失敗者は強い、だから、故郷が無いものは強い。
変化を受け入れなければならないことを知っているが故に。
足がかりに出来る固定した何かを持たないということ。
それは、持つに超したことはないのだが。
時代の変化は社会に対してではなく、個人に対して吹き付けているし、
風を起こしてもいる。


関連リンク:
 安部公房について