難波田龍起 + 難波田史男 鑑賞記

東京オペラシティにて開催中の難波田龍起展行って参りました。

氏の人生に沿い、時系列に並べられた作品。
改めて、このような形でみるというのも興味深いものです。
具象に始まり、具象から抽象への転回。
初期の抽象は、明らかに具象の延長線上にある作品だが、
そこから、完全な抽象へと移行していく。
その抽象作品も当初は、アンフォルメルの影響もあってか、
比較的激しく、画面も華やか、もしくは混乱に満ちている。
しかし、晩年になると同じ抽象でありながら、落ち着きを持った画面となり、
和風の様子さえも感じさせる。
画面は落ち着きを払い、一方で、とても深く根ざした感情があふれ出すような作品となっている。
そして、病床での描写。
惑うような、進むような、力強いような、弱々しいような。
しかし、抽象であるが故に、想像での鑑賞でしかないながら、そうであるが故に。
また、そうであるが故に病床ながら書き上げることのできた作品であったのだろう。

 画面をのぞく視線が激しい直線を捉え、そのまま視線が外へと導き出されるようで。
 曲がりくねった直線を捉えた視線がその曲線の促されたまま画面の中で混乱する。
 静止した画面における、大きくうねるような胎動に呑み込まれる。
 どこまでも深く、そのまま、包み込むようで。
 発散する直線、混ざり合う色彩、そこにある境界、そこからにじみ出る感情。

ついでに、難波田史男展が共催されている。
昨年も死語30年として、夭折した画家の作品展が実施され私も鑑賞したが、
何度みても、とても感銘を受ける。
読書を愛し、純粋性を求めた作家であるが故なのだろうか、
画面の中に在る自由度にもかかわらず、その線と色彩が生み出す、
心痛さ、何かをそれでも希求しようとする意志が、迫りくる。
いくつかの作品においては、そこにいることがいたたまれなくなるほどの、
痛切な感情の露出を感じさせる。
時代などもあるのだろうが、こういった感情は容易には構築されないだろうし、
それをこのように表現することもよういではなかろう。
このような作品を描き上げる画家はもう出ないと思う。
とても貴重な画家だ。

あと、この難波田龍起展、生誕100年を記念してということでした。
つまり、エリアス・カネッティと同じ年に生まれたのですね。
このあたりにも、何か20世紀を感じます。
21世紀になり少し時が過ぎ始め、20世紀の文化の重さをひしひしと
感じています。戦争の世紀から、裕福の世紀へ。
文化の作り上げる世界は、やはり、繰り返されるのだろうか、
それとも、全く違う方向へと進んでいくのだろうか。


難波田龍起展