ロシアの知られざる作家 サーシャ・ソコロフによる「馬鹿たちの学校」を読んだ



サーシャ・ソコロフ

サーシャ・ソコロフはロシアの文学者だが、生まれは、カナダ。その後少年時代はロシアで過ごした後には、その多くの時間をアメリカで過ごしている作家。
この作家の存在は、私は全く知らなかったのだけれども2010年の末に代表作の「馬鹿たちの学校」が邦訳されたので初めて読んでみた。


メタ文学

最初にこの作品を大きく捉えたところで言えば、これは紛れもなくメタ文学であるということ。書くという行為そのものを議論しようともしている作品。実際に、最終盤をはじめとして、何度か筆者が登場したりもする。


馬鹿たちの学校

そして、舞台は、馬鹿たちの学校。その主人公と目されるべき人物は統合失調症とでもいうのか、一人の人物であるが二人の異なる人物を内に秘める。この二人のそれぞれがこの作品の話者になったりもするので、同じ人物が異なる視点で物事を話し、時にはお互いに会話するという奇妙な状況が発生する。おそらく、そういう障害を持つものがいく学校が舞台なので馬鹿たちの学校(通常の学校との対比として)と名付けているのだろうが、ここで、条件反射的に差別的な表現だとか言うべきではないだろう。ある種の人間の本質を捉えるために使用されている舞台であり言葉である。


登場人物

その二人であり一人である人物に加えて、主要な登場人物は学校の教師であるサヴル・ペトローヴィチとヴェータ・アルカーヂエヴナ。そのほかにも幾人か登場するが、ほぼこの3人というか4人がからまりあう作品。
サヴルのほうは、彼らの教師であり、様々な場面で会話を交わしているようでもある。一方で、ヴェータは女性教師であり、彼らが恋い焦がれる存在。


章分け

この作品は5つの章に分かれていて、イントロダクション的な第1章に始まり、ヴァリエーションとも言うべき第2章、そして、上記のサヴルがタイトルにつけられている第3章、次にヴェータに対する感情が主体となる第4章、そして、遺言と名付けられたそこまで散乱しているように思われたものをなんとかまとめ上げようとする第5章からなる。


第1章

はじめに読むと、この第1章は、全く訳がわからない。人称は混乱し、場面も混乱する。誰が何をどこで何について語っているのか。まさに文学の目的とは何かというところが全くつかみ取ることが出来ない第1章。
しかし、これが不思議なことに、すべてを読み終えてから読み直すと、実は、ここにほぼ全てのことが書かれているということがわかる。文学とは何か、文章表現とは何かがずっしりと響いてくる章でもある。


第2章

ここでは、小さな挿話的な物語が並べられている印象で、少し、馬鹿たちの学校からは離れた舞台の印象もある。「今となっては」というタイトルから、歳月がたってから冷静に当時を眺め直してそこにあった光景を描写しているようにも取れる。ここでは、むしろ本編とはずらすことで水平的な舞台の広がりが与えられているようでもある。また、一方では、結局ここに出てくる挿話は男女の関係性や教師の存在が話題の中心なものが多く、この物語全体を象徴していて、結果として多くの物事がそこに帰結する、もしくは、そのような側面から捉えることが可能であると言うことを示唆しているようでもある。


第3章

サヴル。この存在が実のところ、この物語を通して、謎を振りまき続ける。さらには、パーヴェルと記されたりもするのでややこしい。
サヴルはどこにいるのか?これは、この章のみならず、全編を通じてなかなかやっかいな問題である。そして、それを突き詰めれば、この物語を通して謎めいたままになっているのが時間軸の問題がそこに隠れているのがわかる。それぞれがどこのどの時点の話題を対象にしていて、そして、それをどの時間から眺めているのかがはっきりしない。だから、サヴルの存在は、ややこしい。いつ彼は死んだのか。存在しているのか、していないのか。


第4章

ヴェータへの思い。しかし、ヴェータは明らかに精神的には遙か遠くにある存在。だけれども、思いは募る。ただし、ここもまた、主人公の精神的な状態を反映していて、たとえば、思いに思い焦がれてという感じではなく、完全にすれ違った感情が進んでいくのみというところ。ここにはそれでも残存する感情としての恋愛感情というものを感じた。それは、やはり本能なのかと。


第5章

そして、最後の章。ここまで散乱していた文章なのだけれども、この第5章ではというか、章を経る毎に多少は安定してきているように感じられてくる。これは、文体的な工夫があるからなのか、それとも読む側が慣れてきたためなのか、定かではない。
そして、ここは、ある種の謎解き的な感覚もする。ニンフェアの二人、サヴル。たびたび登場する場所、ダーチャ。そして、学校においての。それぞれがどのような存在なのか、そして、その場所は、その時間は。
結局この物語全体を通して、実は、全ての章で同じような時間と場所が繰り返し描かれていたというようにも感じる。しかし、わざと混乱させられた文章に、捉えることが出来ぬままに、読み続けると、そして、第5章までくるとだいぶその欠けたピースが埋まってきて、全体の絵が見え始めるという構成ではなかろうかと。
そして、この最後の章には、それまでの章以上に筆者が登場し、物語にあたらなものを付け加えようとする。つまり、この物語を通して何が描かれていたのかが、種明かしされるようでもある。


全体

といったところで、いや、私の説明ですら、この物語以上に混迷した説明になっているようにも思うのだけれども、しかし、私にはこれがこの作品の全体像だと感じているところである。
書くことによる表現の限界性が、主人公の設定によってさらに極端化されて、そして、言葉は混迷度をむしろ増しながら、しかし、いずれ何かが伝わりえるという結論にたどり着く。そして、実は不足していたはずの言葉は、認識を前提とすると十分であるということに気づけば、我々の普段の言葉は、むしろその言葉の正確性よりもその前提の共有によりコミュニケーションの伝達生が成り立っていることを理解することが出来ると言うことではないだろうか。


テキスト

そう、このある種の伝達不可能なテキストが意味することとは。それは、意味がどこから立ち上がってくるのかというメタ文学の極地とも言うべきことに言及しているテキストとも読めてくる。
なんとも奥深すぎる作品と私には感じた。サミュエル・ベケットの世界にも通じる何かを感じさせてくれる作品だと思います。
超コアな文学が好きな人は必ず読むべき作品だと思います。


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Sasha Sokolov - Wikipedia, the free encyclopedia
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発売日 : 2010-12-14 (単行本)
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