ミハル・アイヴァスによる「もうひとつの街」新たなプラハの迷宮
ミハル・アイヴァス
ミハル・アイヴァスは、チェコの作家。近年世界的な名声も高まってきているといわれる作家で、ボルヘスなんかも引き合いにだされるようなタイプの作家。そのミハル・アイヴァスの日本では初の単行本である「もうひとつの街」が刊行されたので読んでみた。
プラハの迷宮
プラハの作家というと、カフカがまず連想される。カフカ的迷宮は、一見非現実の世界のようだけれども、実際にプラハの街を訪れてみると、その迷宮的な印象の街にその現実的な雰囲気を認識させられもする。この「もうひとつの街」でミハル・アイヴァスが描き出したのも、プラハの街を舞台とした迷宮的世界。この物語の中でも、主人公は、街の中で迷子になりながら、どこへともない場所へと向かう。
一つの本
きっかけは、一つの本。菫色の本は、今まで見たこともない文字で書かれていて、不思議な魅力をその本を手にしてしまった主人公に与える。そこから、物語は始まり、そして、彼の周りで不思議なことが起こり始める。その本の文字の謎を探ろうと探れば探るほど、彼はまさしく「もうひとつの街」を見いだし始める。
迷宮
今まで普通に暮らしている間には見いだすことの無かった街の別の側面が顔を出し始める。それは、夜に、街のちょっとした一角に、図書館の奥地に存在しているもう一つの世界。彼は、そこに踏み入れてしまうことになる。しかし、もう一つの世界は、まるで夢の世界であるかのように、はっきりとはせず、そして、おかしなことになっている。魚を携えた行進、サメとの格闘、橋に住む生物、図書館の奥にあるジャングル。
それは、カフカが迷い込んだ重苦しい迷宮とは違い、むしろ、冒険活劇のようにも感じる自由自在すぎる迷宮であるようにも感じる。しかし、お一方で、何か、より厳格な独自のルールに支配されていて、そして、彼はそこでは異端児として追い払われようとしているようにも感じる。
ウラ側
それを、現実に対して我々が渇望するものとそして拘束するものがより顕著にが表出しているとでも捉えることが出来るのだろうか。自由自在に、物理法則さえも乗り越えたいという願望と、しかし、がんじがらめにするようなルールが乗り越えがたいものとして存在するという現実と。哲学的対話
そして、さらに、このもうひとつの街をとおしては、哲学的な対話もなされる。それは、存在とはということにさえも言及しているようでもあり、また、個人とはということを言及しているようでもある。このあたりもまた、ウラ側に行き、そして、その場所でその存在そのものを考えざるを得ないという状況が生み出した思考なのかもしれない。不安定な安定
そして、本の謎は解明されたわけではない。しかし、もうひとつの街については、十分に何かを主人公は感じ取ったようでもある。不安定の中にある安定という現実が、そして、そこにはあるということなのかもしれない。
書くと言うこと
それから、本がきっかけになっていると言うこともあり、書くと言うことがもう一つのテーマとしてあるのではと考えないではいられない。特に描写において、絵画や彫刻などを積極的に描写している場面が特徴的に感じる。文章を書くという行為とは対極にある表現形態である絵画を敢えて、文章で積極的に書くという行為を行っている。そこには、読書という行為そのものが「もうひとつの街」であるということを暗に言及してもいるのだろうか?関連リンク:
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