ミランダ・ジュライによる映画ザ・フューチャーを見た



ミランダ・ジュライ

現在渋谷のイメージフォーラムにて上映されているミランダ・ジュライ監督・脚本・主演の映画「ザ・フューチャー」を見た。ミランダ・ジュライは、パフォーマーや作家などの活動も持つマルチなアーティストで、以前横浜トリエンナーレにテキストを用いたインスタレーション作品を展示してもいる。


自由への

不治の病の猫を引き取ることにした30代中盤のカップル。その猫により、自由が失われると感じた二人は、猫がやってくるまでの一月を自由に過ごすことを決意する。一方で、猫の方は、やがて来るであろう二人との生活を夢見てもいる。


崩壊する

しかし、その決意とは裏腹に、この二人の生活は崩壊し始める。やりたいことをやろうとした途端に、むしろやるべきことを失い、むしろ、しがない他人に依存度を高めていく。男性は埒があかないまま、女性はどうでもいいような男と浮気する。


予想を裏切る

この映画は、とにかく、ミスリーディングを繰り返す。見ている側が予想する方向とはまったく逆方向へストーリーを導いていく。ひたすらに外すことだけを目的にでもしているかのように。そして、二人は離ればなれになり、そして、猫は二人に迎えられることなく死去する。
やがて戻ってきた女性が遭遇したのは、覇気を失った男性であった。


そんなもの

人生なんて、そんなものと言う言い方なのだろうか。何処かに希望があると思う方が良くて、しかし、実際にそんなところには希望はなくて。人生なんてそんなもんだと言うことなのか。


もうひとつ

こういった描き方は、ミニシアター系の映画では珍しいとは思わない。細かいエピソードをつないで、全体的な物語性によって表現すると言うよりは、それぞれのエピソードの持つ不条理さを積み重ねていって、全体を構築するというスタイル。
しかし、どうも私には中途半端な感じが否めない。全体の物語を破壊しきるかと思いきや、中途半端に物語はつながって進んでいる。ここまで時間軸を壊して表現しようとしている割には、時間軸に引っ張られすぎている。それは何故かというと、どうもこの作品が欺こうとしている対象が、現実ではなくて、見ている人間そのものであるからなのだろう。先述したが、見ている人間が想像するストーリーの裏をかくことが最大の目的と成っているのがこの作品。だから、それぞれのエピソードとその集積には必然性が全く無い。はっきりいうと駄作というのか、鑑賞者を馬鹿にしすぎているようにも感じる。


残念

映画の骨組み自体は、悪く無いどころか、むしろ、すばらしいと言っていいだろう。だというのに、何故このように映画の目的を見失ってしまったのか。それは、この主人公の女性の行動と見事にリンクするのは、監督と主演が同じであると言うことを見事に表現していると、むしろ、捉えるべきなのだろうか。そこまで深掘りしてまで、この作品を無理矢理理解しないといけないような気がしてくるほど、非常に残念な映画だった。
かなり期待を感じさせる予告だっただけに残念さはひとしお。


関連リンク:
映画〈ザ・フューチャー〉the future 監督・脚本・主演 ミランダ・ジュライ 2013年1月 シアター・イメージフォーラムにてロードショー!
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