モーリス・ブランショ 最後の人/期待 忘却



男女

20世紀を代表する作家の一人と、私は思っているモーリス・ブランショの作品集 最後の人/期待 忘却 を読んだ。いずれも、男女の会話を中心とした作品の展開で、特に、”期待 忘却”は、短い文節が切り刻まれながら並べられた作品。


文学の極限

”最後の作家”というような表現も使用されるモーリス・ブランショであるけれども、文章は、まさに極限値に達していて、最早、具体的な物はほとんど語らずに、ただ、ただ、男女の会話が展開される。順列組み合わせで可能性を消尽した後に、言葉を極限にまで絞り込んだ、サミュエル・ベケットと、その志としては似ている物を感じさせる物の、むしろ、モーリス・ブランショは、個人と個人の関係性にのみに絞り込んでいて、その両者には、類似性と対称性を感じる。途方もないほどに個であるのか、それとも、ただ極小の関係性のなかで互いの存在や認識を決定的な差異を感じながら、問い続けるのか。


難読

そう、”最後の人”も”期待 忘却”も、いくら読み進めても、何一つとして、脳の中に情景は浮かんでこず、ただずっと五里霧中の中に焦点を合わせるべきポイントを探し続けることしかできない。そして、そこには、ずっと、彼がいて、彼女がいて。しかし、時に何処までが会話なのか、どこまでが心の中の言葉なのかもわからなくなり、やがて、プレゼンスとさえ表現される。
このただ問い続けることしかできない関係性とは、結局の個である存在をしめしているのか、それとも、その個を否定しようとする努力なのか。
いずれにせよ、そういった抽象的な世界を進むことになるが故に、何読書であることには違いないと思う。


要求

それとも、もし、我々が、表層を表層として受け入れることがなければ、結局こういった対話に、そして、まるで確認の作業に入るしかないのだろうか。そして、それは、相手に対する確認でありながら、やがて、自分自身に対する確認にも変わる。例えば、もし、イメージを否定したときに、イメージに寄らない何かの絵を描ききることが出来るだろうか。もし、それを自分自身の存在に当てはめたときに、もしくは、他の誰かに当てはめてみたときに、一体どういうことが起きてしまうのか。そして、文学の、もしくは、表現の極限には何があって、そして、それは何をもたらすというのだろうか。


抽象性

人間が手にした最も大きな脳の機能は、抽象的な思考力だと、私は思っている。イメージによる反射のみではない、メタを思考する思考。


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最後の人;期待 忘却
発売元 : 白水社
発売日 : 1992-11 (単行本)
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