どうでもいいけど その2

1.もう一度
この間、朝日新聞の夕刊に記載された評論がひどすぎるという件を書いてみたが、一方で、一部にあの文章を賞賛している文章を見てさらに不思議さが増してきたので再度少し書いてみる。


2.大丈夫?
で、少し考えたところ、最大の違和感の発生要因は、ガルシア・マルケスの”わが悲しき娼婦たちの思い出”をエロティックという言葉によって単純に評価してしまおうとするそのところにあると感じる。あの作品をただの少女への偏愛小説と捉えてしまって、その延長線上で綿矢りさ作品への評論をそのまま偏愛として捉える、その構造がすばらしいという評論があるが、これはひどい誤解をさらに誤解で上塗りしているだけである。そもそも、その偏愛という観点が誤解であるし、さらに、もし本当にそれが偏愛であるとすれば、それこそ、新聞の紙面に記載すべきことではないだろう。この時評は、愛の告白の場ではないはずで、文学を評論する場であるはずではないか。もし、この指摘がその指摘通りなのであれば、それはさらに問題が深刻であることを意味する。一方で、この”わが悲しき娼婦たちの思い出”は、とても静かな構成の作品となっている。このことが、こういった誤解を生み出す要因になっている側面もある。表現の分かり易さと難解さを何処でバランスさせるかの難しさがここに露出しているとも捉えることが出来る。


3.ブログとマス
また、ブログなら許せるという文章を以前書いただ、そのことについてと、そして、新聞というマスメディアのちがいについて考察してみると、こうなる。
ブログは、ほとんどの場合、検索するなど見る側が能動的に活動した結果たどり着くところである。すなわち、ほとんどの場合、鑑賞者はその内容について一定の判断基準を持つし、そして、ほとんどの場合はその内容に多くを期待しておらず、ちょっとした情報を必要としているに過ぎない。一方で、マスメディアの場合は、受動的鑑賞者が少なからず存在する。すなわち、その内容に関して、ほとんど判断基準を持たずに、場合によってはその内容を鵜呑みにする、もしくは、理解できないという判断を下すことになる。とくにこの、鵜呑みにするが大きな問題である。つまり、あの時評の書き方では、多くの鑑賞者は、ガルシア・マルケス作品についての印象は何もなく、綿矢りさが評価されていたという印象だけが残る。これで良いのか、ということなのだ。そして、もしそこに偏愛が入っているのであれば、それこそ問題ではないのか。そもそも、ここで偏愛を議論するというのは、性表現に対する態度としてとてもプアであるとしか言いようがない。
そもそも、衝撃を感じさせてくれる文章評論というのはほとんど見かけないのが現実であって、しょうがないのかもしれない。作品のあとがきに書かれている内容にしたところで、これで良いのかと思うものも少なくはない。まぁ、文学作品の側に衝撃的な作品が無くて、結果として、論じる必要のない作品を論じざるを得ないという悲しい現実があるのかもしれないが。


関連リンク:
dLINKbRING.Literature.ガブリエル・ガルシア=マルケス
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