ICCにて、ポストインターネットのリアリティを感じることはありませんでした



これから?

初台のICCにて現在開催中の展示、「インターネットのこれから ポストインターネットのリアリティ」を見てきました。
まぁ、タイトルだけみると、これはもうかなり刺激的なそれなので、一体どんな問題定義があるのだろうかと、期待も膨らむわけです。


で?

しかし、これがこれが、とっても残念なというのが私の感想。私の個人的な感じ方なのですが、これ、どこがポストインターネットなの、っていうのが私が感じたところ。ポストどころか、現時点でのインターネットにもすでに遅れてしまっているのではないかと。例えば、マウス重ねて祈りといったって、ガジェットによるアクシデンタルな戯れ以上のものを感じないし、それに、祈りという言葉の意味づけをしているのは、むしろアーティスト側で、そこにミスリーディングを仕掛けているだけだから、それではもはやリアリティを論じることは出来ないでしょうと感じてしまった。あと、Google の作品にしても、そもそも、売却したのだから、そこに批評は加えることはできないでしょうと、なんか、自分でルールを作って破ってだけにしか感じなかった。まぁ、皮肉的にはその自己完結な戯れを公開して楽しむことそのものがインターネットのリアリティではあるのかもしれないが。


そがれる

という最初の方に見た展示で気勢をそがれてしまったのでどうもあとはだらだらと。例えば、ウラにいる多くの無名の人物だとかを取り上げているっぽかったりするけれども、それは、インターネットになったからではなくて、ピラミッドの建造のほうがなおさらその要素があったろうし、きっと場所によって制度は違うだろう。それを、単に今日的な問題であるかのように描いただけで、何の意味があるのかと。
あとは、まぁ、まさに落書きか。


フラット

私自身の問題意識では、ネットのもたらすものは言い尽くされているのだろうけれども、やはり、フラットになっていくということ、良くも悪くも。ひょっとしたらそれが、ヒエラルヒーの再構成になるのではとか、一方で、ただ、表現手法を変えただけに過ぎないのかだとか。そこあるのかnいのかわからないけど、感じずにはいられない可能性とそう感じてしまう人間の感性の面白さこそが、この拡散が次の段階にたどり着こうとしているインターネットのポストな部分ではと思うのだが。


メディアアート

思うに、メディアアートが結局時代性を持ち得ないかもしれないという危機が、このところのICCの切れ味の悪さにもつながっているのだろう。常設展示は、科学館の展示と何が違うのかわからなくなりつつあるし、そもそも、テクノロジーの進化があっというまに、かつては一部の人にしか出来ない戯れを解放してしまったために、メディアアートという名の下に行ってきた行いが、全て意義を失いつつあるようにも感じる。思えば、手のひらに収まる端末で、いろんなことが出来てしまう世の中で、ちょっとランダムな自動性によって何かを産み出したところで、驚きにさえもならない。


これから

結局時代に対して十分な強度をもつアートとは何かということの方を考えるべきで、インターネットのこれからというような大それたテーマを考えるには今のメディアアートは力不足なのではないのか。自己反省がない限り復権し得ないように思う。つまり、日本の高度成長もそうだったが、実は大阪万博が全ての頂点だったのかもしれない。それを引きずってはダメなんだというのが、まぁ、これは日本全体が認識すべきことなのだろうけれども。


生き残る

様々な絵画や彫刻や建築は今も重宝がられ、そして、保存されている。一方で、メディアアートはどうだろうか。しばらくすると動かなくなり、形だけ残されるだけだとすると。そのリアルとヴァーチャル、それを振り返ってみれば、ポストインターネットとかではなくて、ポストメディアアートを自分たちが自分たちで振り返るというのが先なのだろう。


だから

だから、そんなところから提示されたポストインターネットは、もはや時代遅れの感じがするだけで、未来の良さも悪さもなにも感じ取ることの出来ない展示だったのでした。
まぁ、しかし、これは私の個人的な感想です。私の感性が鈍いだけというのもまた真実なのかもしれません。今の私にはそのようにしか感じることの出来ない展示だったのでした。


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