オペラシティにて、都市についての展示「家の外の都市の中の家」を見た



家の外の都市の中の家

現在オペラシティアートギャラリーにて開催されている展示「家の外の都市の中の家」を見てきた。この展示は、第12回ヴェネチア・ビエンナーレでの展示の内容をベースにしているとのこと。
で、そのタイトルのとおりで、この展示は、都市の構成を大きな視点で捉えながら、住宅について考察する展示。2011年10月2日まで開催。


東京

都市概念の比較がまずなされていて、統治体制の違いによる都市構成の違い、そして、そういった歴史的事情も含めて現在の世界のメガロポリスな都市と、そして、東京という都市の違いが考察され、東京という都市の独自性の要素が提示される。
東京は、戦争や大震災などで焼け野原になったのち、再建された街でもある。そして、その街にはいくつかの相矛盾しがちな概念が混在する街でもある。高層ビルディングと住宅。商店街と住居。住宅と都市。


住居

その東京に見られる住居とは。確かに、東京では意外にも低層の個人住宅が並ぶ住宅街を都心でも見かける。また、少し離れれば、住宅街が各所に密集していてベッドタウンのようでもあるし、そこで一つの都市圏を作っているようでもある。つまり、都市論となるとどちらかというとパブリックなものを中心として捉えられがちだけれども、そうではなくて住居の集合体として都市をとらえるということがなされているともいえる。
実際それらを分析するのに使われるデータ的背景も興味深くて、日本における住居の平均寿命の短さや、道路などの非住宅空間の、いわば都市の空隙の多さなど。このあたりの特徴にも言及しながらプライベート空間としての住宅という視点のみではなく、都市を構成する一つの要素でもある住宅という視点も加えた住宅概念を提示するような展示である。


三つ

その概念の提示として、三つの住宅が模型的に提示される。アトリエワンのアトリエ、西沢立衛による森山邸、北山 恒による祐天寺の連結住棟。
これらの共通するのは、外部の街との連絡。出入りの自由さや、もしくは、住居内の可視性によって外部とつなぐと言うこと。そして、そのことの延長線上にある概念として、共同体という概念とも結びつく建築形態の提示ということになるのだろう。


わかるのだけれども

つまり、共同体への参画でさらに都市を含めて住宅の存在意義を高めようという主張であると理解してみた、私は。ただ、これは個人的原体験の影響なのかもしれないが、私は共同体というものには全く信頼を置いていない。何故人々は核家族化を選択する方向性を持ち、そして、何故人々は都市を目指す傾向を持つのか?それは、共同体に潜むある種の住みにくさも要因ではないのだろうか、全てではないだろうけれども。一方的な傾向に対して、反動として共同体を唱えたくなる気持ちはわかるが、しかし、それはほぼ意味をなさないと私は考える。結局最も心地よい共同体は共通項のある人々の集団であって、それは種々雑多な住民ではないのではないのか?


シェア

そして、結局私には、露出趣味にしか感じられない、こういったオープンな住宅というのは。最近ネットを中心にシェアという概念がしばしば登場するが、あれは、便宜的にシェアという言葉を使っているが、私は、そこではむしろ露出や主張の意味合いのほうが強くて、いわば自己顕示欲の提示の場である場合が多いのではと思う。半双方向対話というのが、その自己顕示欲にはちょうどいいということだと理解している。だから、シェアを正にシェアと捉えては現象を見誤ると思う。



露出

そして、何故それを、では、露出と私は表現したいのか?我々は身体や思想も含めて隠すということを行う。それは、一方で隠すものが批判対象にさらされるとアイデンティティにかかわってくるが故でもあるだろう。一方で、アイデンティティにかかわるものはむしろ露出といういわば一方的に提示する手段をとって逆にアイデンティティを強固にするという行為にも結びつく。その反対のようなものがいわばのぞきであって、それは、一方的な評価者になることで内的にそして、相対的に自己のアイデンティティの保持を行おうとする行為でもある。
だから、露出というのは、不快なのだ。アイデンティティをを押しつけようとしているようにも感じるから。


押しつけ

だから、こういった都市へ公開することによる共同体への参画のような意識って言うのは、私には、幸せな生活の押しつけであって、さらに言えば、ある程度所有者側に立った人間のためのものでしかないようにも感じられる。
もちろん、別の観点から捉えて、あえて公開することで、自己の弱いアイデンティティを慰めるように見てもらうという要素もあるだろう。しかし、それはそれで弱々しくないのか?
それは反証として、私のこのブログがそういう要素が強いということを示してもいるし、そういう要素が強いことを私自身でも認識していた上で、それでも続けている。


個人的

というので、この展示云々とか、都市分析には非常に納得出来る要素が強いし、この文脈から住宅をより都市へとつなげるという考えへと展開することも十分に理解できる。しかし、私には、それは机上の空論にしか思えない。本当の感情に直結しているのだろうか?
いや、結局個人の感性なのだろう。どちらが多数派なのかはわからないが、私の感性が少数派である可能性は高いとは思うが。少なくとも、私は先述のとおりもあって、共同体には全く幻想を持っていない。だから、こういった住宅様式には意味を感じなくて、上記のように思ってみた。しかし、これは私個人の感覚です。
そして、展示はすばらしいと思います。それをとうしていろいろと考え直すことが重要でもあると思います。


関連リンク:
家の外の都市の中の家|東京オペラシティアートギャラリー
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