Art2.0 というごまかしのタイトルで(その1)

1.始めに
相変わらず、その動きが不明なICCをベースに芸術の今後の行方にweb2.0的発想を取り込めないかについて、少し考察してもようかと、いろいろとネタを考えていたところに、石原都知事の発言が入ってきたので、これを機に実際に少しずつまとめていこうかと思う。


2.石原氏発言について少し
さて、石原発言であるが、ネタ元および関連言及ネタとして以下のようなものがあるようだ。


カルチエ財団、展覧会の開会式でとんだ「とばっちり」 リベラシオン
石原都知事を全面擁護するわけではないのですが。 紺洲堂の文化的生活
石原東京都知事がカルティエ現代美術財団を叱る!? アート資本主義
私自身は、石原発言を詳細に聴いていないので、評価できる立場にないと言うこともあり、その発言の詳細に立ち入ることはしない。が、今回の発言のみならず、石原氏の言動をとおして思うことを少しだけ。
東京都現代美術館は、新規購入予算もないままに、そして、何故この人が館長という状況において、運営されていて、その結果として、現代美術館とは思えない惨憺たる状況がここ数年続いている中で、その原因として東京都現代美術館をつぶしたいと思っているとしか思えない石原都知事の影が見え隠れすると感じていたが故に、今回の石原氏の発言は、その思いが一気に爆発結果であるのではないかとさえ思う。さらに、個人的な意見を言わせていただければ、この東京都現代美術館のことを石原氏が気にくわないのは、単に自分が発想して作ったものではないからだけでは無かろうかとも思えたりする。美術に対してこのような態度をとりながら、一方でオリンピック誘致にはやっきになっているというところは、石原氏独特のバランス感覚というか、端的に言うと矛盾であると思う。
それから、もう一つ思うのは日本美術を集めるべきと言う発言。これはいかにもな発言であるが、これ自体もくだらない発言だと思う。海外だろうと日本だろうと重要と考えられるものをコレクションすべきであるだけであって、はなから国籍を持ち出すこと自体、現代美術的ではないと思う。


3.東京都現代美術館およびそもそも現代美術
それはさておき、議論はむしろ東京都現代美術館を中心に現代美術について進めたいと思う。このブログの中でも何度か東京都現代美術館についてその批判を含め言及してきたが、ここ最近の活動については、また本来あるべき現代美術館の姿を取り戻しつつあると感じてきているというのが私の感覚である。件の「カルティエ・・」も是非とも見に行きたいと思っている展覧会であるし、それをしっかりと開催している姿はすばらしいと思う。そして、何より石原発言からすると、もっとも苦汁をなめさせられてきた(いる)のは、きっと現代美術館の学芸員の方達なのだろうとも思い直してみる。
3.1いずれにせよ現代美術は・・・
しかし、いずれにせよ現代美術というのは、苦しい立場にあるとは思う。その要因の一つには、鑑賞者の少なさもあるだろうし、そして、その状況を作り出している最大の要因としてそれが一体何なのかさっぱりわからないと感じる人が多いということだろう。また、それがさらに加速する要因としては、”わかる側”にいる人からすると、それをもっと進めたいと思うだとか、もっと進化したものを鑑賞したいと思う一方で、”わからない側”にいる人はそれがどれほど進化していようと自分から遠く離れてしまったと感じられるものは、もはやどうでもいいとしか感じられないという現実だと思う。まずこの”わかる””わからない”について整理しながら、議論を進めていきたいと思う。
3.2”わからない”現代美術
まず私自身の感覚からすると、この現代美術に対する感想の中で、常に”わからない”という発言が出てくることに違和感を感じないではいられない(ちなみに、私自身の立場は、現代美術ファンである。)。私自身の考えでは”わからない”のが当たり前だと思っている。”わかる”というが例えば、横山大観を見て、じゃぁ、何が”わかっている”のだろうか?絵がうまいということなのか?(横山大観を引き合いに出したことには、全く意味はありません。横山大観批判でも何でもなく誰もが知っていそうな例としてです。)むしろ、時代背景の異なるものでの作品が語ることの方がむしろ”わからない”のであって、同時代である現代美術のほうが”わかる”(もしくは”わかる可能性がある”)のではないだろうか?そう考えていったときに思い至るのが、そもそもの芸術に対する考え方の差異である。芸術に何を求めるのか?
3.3”わかる”ということ、”わからない”ということは実は
きっと”わかる”ものを見て、”わかる”ということを感じる鑑賞者は、まさに、”わかる”ことを求めているのだと思う。一方で、”わからない”ものを見て、何かを感じる鑑賞者はまさに”わからない”ことを求めているのだろう(正確に言うと、”わからない”けれど、”わかり”そうな何か)。言葉で何かをごまかしているように思うかもしれないが、こう表現すべきことなのだと思う。もう少し別の表現をすると静的に変化しない世界を求めるか、それとも、動的に変化し続ける世界を求めるのか、もしくは、現実をそのように捉えているか。そして、さらに言葉を変換すると、現在の社会を”わかっている”と思っているのか、それとも、現在の社会が”わからない”と思っているのか。とこうして変換していきながら、もとのものとつなげるとこういうことになる。現在の社会を受け入れることが出来る立場にある人にとっては、その現在の社会には少なくとも表面的には存在しないかのようなつまり”わからない”芸術など必要とはしておらず、一方で、現在の社会に何らかの違和感を感じながら、それを何とかして乗り越えることは出来ないのだろうかと感じる立場にある人にとっては、その現在に存在しないように思える何かが、しかし、実際のある形としてまさにそこに存在している芸術作品というのは、まさにその存在だけでも十分に意味を持ち得るものであり、必要としているのだと。つまり、ある意味では芸術は別のベクトルの提示であると思う。
3.4つまり芸術の二つの意味
そう考えたときに、一般的なベクトルをもとに判断して、”わかる””わからない”を議論することに意味がそもそもないのでは無かろうか。もしくは、むしろ”わかる”芸術と”わからない”芸術という同じようで全く異なる要求がそこにあって、それぞれは実は別物として捉えるべきと言うことになるのかもしれない。例えば、音楽であれば、ポップソングもあれば、クラシックもあるし、ジャズも民族音楽もあるし、アヴァンギャルドアンダーグラウンドなど種々雑多でありながら、それぞれがそれぞれにファンをもって、そして、それぞれがそれぞれに対して干渉することもなければ、逆にそれぞれに対して、それ相応に対応するクロスジャンルファンも存在する。このような態度は芸術に対しては認められないのだろうか?(ただし、最終的には芸術という枠組みの中で音楽と美術が分断されべきものではないという議論が残るがここでは、議論を拡散させないためにこのことについては言及をさける)
3.5税金もしくは企業資金の投入という背景
もしそれが 認められないと断言されるのであれば、その理由の最大の根拠は税金(もしくは企業が社会福祉として提供していると考えているような資金)が投入されているということだろう。そこで、思うのは税金(もしくは企業が社会福祉として提供していると考えているような資金)が投入されているからこそ、後者の”わからない”芸術が取り扱われるべきではないかということなのだ。何故かというと、結局芸術のひとつの大きな役割として、その別のベクトルをしっかりと提示できているか否かということがあり、それがなされているか否かが芸術が価値があるかどうかの分かれ目なのだと考えているからだ(ちなみに、最近美術館で解説がはやっているが、この解説は作品を”わかって”もらうための解説であるべきではなくて、”わからない”ことを認識できるようにするための解説となっていることを祈っている)。
3.6四権分立
では、何故そのような行為が公共事業(社会福祉事業)として行われる必要があるのか?そこには、勿論社会が何を重要と考えるのかという面が主要な要因であり、絶対的に正しい何かというのは無いのだろうが、そのような別のベクトルを提示するということをさらに推し進めて最終的には、私自身の考えでは、三権分立ならぬ四権分立として考えるべきだと思う(個人的には実は五権分立であって、いわゆる三権に市民という立場があって、そこにさらに芸術が加わると、ちなみに、安部公房は教育を持ち込んだ四権分立を提案していた)。であるが故に、芸術というのはある種の独立した立場を持つべきだと思うし、ある首長がそれに対して必要以上に首をつっこむ権利さえも無いと考える。意見を述べる権利という意味では、誰にもあることは当然認める。また、税金(もしくは企業が社会福祉として提供していると考えているような資金)が投入されている以上、何をやってもかまわない訳ではないのもまた当然である。そこの問題に対してではどのように考えていけばいいのか、これがここでもっとも議論したい内容であって、ここまでは現状の整理を行い、問題点を明確にしてみたのだが、そのとおりに展開できているだろうか、不安ではあるが、と突き進むしかない。


次回へと続く・・
 予定:ART2.0の可能性

関連リンク:
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