ICC閉鎖?その2

ということで、ICC閉鎖について考える第2弾。
文化に対する企業と公共事業の役割について。
バブル崩壊後の不景気以降徐々になのか急になのかは別にして、
日本社会の構造が変化してきていることは事実である。
終身雇用崩壊、外資参入、投資熱などなど。
そんな中で、文化に対する企業の投資も激減しているように感じられる。
企業による美術館の相次ぐ閉鎖、企業スポーツの衰退、
そのほかにも例えば、囲碁の企業スポンサードの大会が消滅したりなど。
つまり、現金につながらない投資は必要はないということだ。
かつてのこういった企業による文化投資は、一つは社員への福利厚生の側面があり、
もう一方には、社会への利益の還元という側面があったと思う。
前者で言えば、社員の価値観が多様化している現在では、形態の固定された福利厚生は
必要とされない。後者で言えば、利益が出ていないのに利益を還元するのか
と言われれば、言葉は出ない。
つまり、企業による文化への投資が激減するのは必然ともいえ、いまさら企業に期待するのはかなり
困難なのが現実というのが答えだろう。
それは、公共投資についてもほぼ変わりないに違いない(個人的にはそうあるべきではないと思うが。)。
では、このまま文化的なものは衰退していっていいものなのだろうか?
(文化とは何か、人々にとって必要な文化とは何かという議論も必要だろうがここでは省く。)
とりあえず、文化的なものは必要であるという立場で話を進める。
そもそも、文化を企業が支える、つまり、上から支えるという発想自体が間違っていたという
ところは事実ではあるが、一方で、それらの事業には現金が必要だ、よって、
現金を出すことができるところが支えるしかないというところもある。
結果、その狭間での苦しみが見え隠れするのが昨今の状況であろう。
ただ、時代の流れからすると答えはもはや限られていて、
〓大金持ちが財団を作ってそこが支援する形態(石橋財団によるブリジストン美術館的)。
NPOのようなもので何とか支えていく。
〓商業ベースに乗るビジネスモデルを作り上げていく。
ということになるだろう。
ただ、重要なのは、これらの選択肢でどの程度の規模のことが可能なのかである。
結果として、小さくなりすぎては、一部のサークル活動となり、趣味の集まり、
それが文化なの?という具合になりかねない。(そもそも、趣味と文化の違いを議論するのも難しいが)
いずれにせよ、公共、私企業ともに期待できな現状に対しては、
一人一人が立ち上がって、大きなうねりを作るしかなく、
〓の選択肢をベースに可能な限り〓の要素を拡大して、市民の中の一人として、
〓のような人間を見つけ出していくということになるしかないのであろう。
と、書くのは簡単が果たしてそれらはいかにして実行可能なものになるのか。
大きな課題だ。