巨匠最後の作品?タル・ベーラ監督による「ニーチェの馬」



タル・ベーラ監督

ハンガリーの巨匠タル・ベーラ。ヴェルクマイスター・ハーモニーなどで知られる映画監督で、近年では、倫敦から来た男が上映されている。
そんなタル・ベーラ監督が最後の作品とも行っている映画「ニーチェの馬」が公開開始になったので、早速見に行ってみた、イメージフォーラム


舞台は、父娘で暮らす石造りの小さな家。あるときから、その家の周りを嵐が吹き荒れ始めた。その嵐の中でひっそりと暮らすしかない二人の7日間が描かれる。


白黒寡黙

いつものタル・ベーラ監督作品と同じく、黒白の画面。そして、この二人は寡黙である。片手が動かない父とその面倒をみる娘という構図にも見えるが、しかし、その間柄には冷めた様子も感じられ、暖かな親子の様子ではない。そして、馬。最早荷を引くこともできず、食事すらまともに食べない。その生活が淡々と寡黙に描かれ続ける。


訪問者

そこに訪問者が訪れる。この嵐の状況について、こちらはむしろ饒舌に語るこの父娘と知り合いとも思われる男。批判的な言葉だけを残して、去っていく。どこからともなく馬車でやってきた数人の人物。井戸の水を飲んではそのまま追い返される。
わずかな外部との接触は、そもそもこの父娘の生活が故なのか、嵐のためなのか。


消えていく

そして、徐々に生活は追い込まれていく。もともとゆでたジャガイモだけの食事シーンが繰り返されるようなミニマムな生活。しかし、やがて井戸は涸れて、何処かへ脱出しようとするがどこにも目的地はなく、戻ってきてしまって、そして、ついに光が消え去ってしまう。
一体何が起きているのか。登場人物はおろか、鑑賞者にも何事かはわからない。時々、何かを説明するナレーションが入るといえども、やはり、わからない。


体験

それは、同様の体験なのだろうか。吹きすさぶ風の音が終始流れ続ける。そして、やがて、画面は光すら映し出さなくなる。映画館自体が、白黒で寡黙な空間に変わる。


それでも

どういうことなのだろうか。水が失われて、火も失われて、ただ、堅いだけのジャガイモをそれでも食べなければならないとつぶやく。
このミニマムな空間でも、人間は、当たり前のように生きようとする。そのことを描いているのではとも思わせる。
しかし、やはり謎だ。ただ、この映画の解釈の答えは見つからないとはいえども、何ともいえない感覚と映像の残像だけは、脳に残存している、この映画を見終わった後でも。


それこそが

それこそが、映画というものなのかもしれない。それを、ここでタル・ベーラ監督は描ききったということなのか。


記憶

余談だけど、なんかこういう嵐が訪れるところにある街があって、そこに住み続けている人を捉えたドキュメンタリーみたいなものを昔見た記憶があるのだけれども、今ひとつ思い出せない。中国の内陸だったような記憶もあるのだけれども。そのあたりにインスパイヤされていたりするのかもってふと思ったのだけど、しかし、私の記憶が曖昧すぎました。


混雑

私は、初日に見に行ったこともあって、なかなか混雑していました。きっと、多くの映画ファンが訪れたのでしょう。しかし、この映画は、なかなかなもので、コアな映画ファンでなければ、なかなか楽しめないかもしれない。そして、眠いです。私も、何度か意識が飛びかけた気がします。
それでもなお、何かを体験したいという意志をもって、この映画を鑑賞されれば、何かが感情に残るのではと思います。

関連リンク:
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