ICCの今度のイベントはライト・[イン]サイトで、そのイベント
ICC
本日2008年12月6日から始まったICCのイベント、ライト・[イン]サイト の開催にあたってのトークセッションが行われたので行ってみた。イベントは2部構成で、出展作家が2組に分かれて展示作品を含めた紹介と、ちょっとしたディスカッション。
第一部
第一部は、パネリストが、岡田温司,インゴ・ギュンター,エイリアン・プロダクションズ,ミシャ・クバルで、司会が四方幸子(敬称略)。なかなか、トークが暖まらないままに、終了した印象だけれども、表出した現象としての光とその加工、もしくは認識が主題だったと思う。ただ、どちらかというと、光という手段であったり、その強引なアナロジーによる解釈のような話しに終始してしまったのが残念。第二部のはじめのほうでちょっとだけ四方さんが言及していたのだけれども、やはり、光を議論するのであれば、その表出した現象である光と影やそれに派生するアナロジーなどではなくて、光が持つ最大の特性である時間との密接な関係を議論すべきだったのではと思う。たとえば、音と光は似たところがある。周波数で議論できるものであるし、人間がそれぞれ専用の知覚を持っている。ただ、最大の違いは、光は時間と繋がっていること。この特性を持つ光が扱われる意味合いをもっと取り上げて欲しかった。
第二部
第二部は、パネリストが、池上高志,エヴェリーナ・ドムニチ&ドミートリー・ゲルファンド,ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニ,ヨッヘン・ヘンドリックスで、司会が四方幸子(敬称略)。こちらは、比較的白熱した議論。池上さんのテクスチャーとシンボルの間にあるものが生命的なものという話から発展して、抽象概念だけでもストーリーだけでもアートたり得ないというところに対して、アーティスト側からストーリー自体は重要な物ではないわけはないというようなところへ話が展開。
そもそもの、池上さんの指摘はそれはとても的を射ているし、ある程度の良識のある人はすでに気がついている事実だと思う。ミニマルになりすぎると、理解困難な抽象に陥るし、一方で、ストーリーにこだわると情緒に訴えるだけで感情に流されて判断を誤る。だから、その中間であることが必要なのであると。
これはこうも言い換えることが出来ると思う。つまり、ストーリーというのは次元の縮約であると。例えば、感覚器は多くの物を認識可能であるけれども、脳は、その全てを受け入れて処理することは出来ない。刻々と時間変化する情報の全てを認識すると処理が追いつかない。その結果として錯覚という現象も起こりうる。ここでも既に脳は情報の縮約を行っていて、それによって、脳は何かを理解する。そのは本能的な部分と経験的な部分のそれぞれのデータベースを利用して行っていると捉える事が出来る。これに対して、アートは、このデータベース外の刺激を鑑賞者に与えようとする。そのことで脳は混乱する。ある程度は適切な刺激となるけれども、これが度を超すと、今度は、その刺激を認識することなく、受け流すようになる。高度な数学の数式を眺めることと同様の状態になるわけです。これを支えるのが、ストーリーになるのではないかと思う。だから、ある程度適切なストーリーは、鑑賞者に取っては必要となる。それがでは、どの程度ある必要があるのかというのは、それは、出力側である製作者と入力側になる鑑賞者の両方について、もっと考えるべきであると思う。池上さんの話はとても面白いし、スゴイと思う。ただ、アートとしての観点から捉えると、上記の出力側の主張だけになっているようには思う。
例えば、ここでたびたび指摘しているビデオアート系の4次元作品(空間3次元と時間)の鑑賞の困難さの問題。これはこの縮約と関連する。完全に縮約が働く作品は、それはアートではなくて、映画になるだろう。アートは縮約が困難をもっている。これをどの程度の困難さにおくかである。つまり、理解困難な情報の奔流の中におかれた鑑賞者は、その大量な情報を処理仕様とし始めるのだけれども、その処理が追いつかないという自体に陥る。では、そこにストーリーをおけばいいのだろうか?すくなくとも、処理が追いつかない状態に感じる一つとして、そこにストーリーを見いだそうと品がら、見いだせない状態のことであろう。それをサポートするために、作者が(キュレーターが)ある程度のストーリーを用意すると、それで、そのアートの役割が果たせたといえるのだろうか?これは手法としては、現実的であるけれども、反則技であると思う。それであれば、最初から説明だけすればいいじゃないか。そうではないこととは。つまり、作者が出力側としての反応だけではなくて、入力側の反応ももっと考察しなければならないのではないかということ。しかも、その入力側の持つポテンシャルが千差万別という状態に対してである。そう、このディスカッションを聴きながらいろいろと考えていると、つまり現在のビデオアートなり、メディアアートに完全に欠落しているのは、そのあたりのアプローチではないかと、そう思えてきたのである。逆に、それは、例えば、文学の世界では、すでにあきらめてしまった(ストーリーに駆逐されてしまった)アプローチであるし、映画の世界では、一部で細々と続けられていることでもある。そこで、まだ互角の戦いを出来ているのは、美術だけかもしれないとも思う。だから、期待を込めて、何度も言及したくなる。
として、話しがそれてしまったけれども、このディスカッションはとても面白かった。知覚側の議論が少なかったが故に、問題が発散するだけで終わったけれども。
楽しく
ということで、久非ぶりに脳がいろいろと蠢く事が出来たいいディスカッションでした。ただ、時間が無くなって、展示は見ることが出来なかったのだけれども、まぁ、2009年の2月28日までやっているので、またそのうち展示を味わいに行きたい。IC
それから、Inter Communication という雑誌がこれまで季刊で出ていたのだけれども、今年の夏で廃刊になったと思ったら、”IC”として、フリー雑誌として新たに始まったみたい。随分と薄くなったけれども、ここのところのICCのフリー化路線と連なっていてとても良いことだと思う。こちらも、今後の展開に期待。
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