阪神・淡路大震災



1.当時
阪神・淡路大震災が発生した当時、神戸に住んでいた。幸い、私は、生き延びる事が出来た、大きな被害も被らなかった。しかし、壊れ果てた街を歩いた。電車に乗る事が出来る場所まで。幸い、身近な人で亡くなった人はいなかったが、同じ学校に通っていた人で亡くなった人はいる。家を失った人もいる。


2.その後
その後、少しばかり地震対策に関わることを行っていた。外国での地震被害の様子も目にした。今はもう、地震対策には関わっていないが、地震が世界のどこかで起こる度に、悲しくなる。かつて、自分がやっていた事が、本当に人を救うのだろうかと、自問自答する。しかし、そうなるに違いないと思って、やっていたし、その地震対策によって、地震被害は少しは低減しているという自負もある。何故そう思えるかというと、当時の状況を知っているからだ。あの被害からなるべく多くの学ぼうと人々は努めている。その当時を、上から見て批判するだけの人は少なくとも、私の周りにはいなかった。


3.混乱
あの神戸の地震の後の混乱は計り知れないものがあった。誰が、あの被害を低減出来ただろうか、あの地震が発生する以前に当時に、いやある程度は低減した、人々が人々を助けた、それが精一杯であった、あの当時のあの悲劇の前では。そして、いずれにせよ最善を尽くした。いや、よりよい方法があったかもしれないし、実際にあったとは思う。それが本当に最善だったのだろうかということは、それに関わった人間だけが自問自答出来ることである。そして、その被害によってはじめてわかった事もいくつもある。その結果から学ぶべきことは多いだろう。しかし、その当時そこで対応に追われていた人を、その悲劇とは関しない人が安易に批判すべきではない。特に、事実の部分を無視した状態では。


4.未だに
かつて、地震対策について検討していた身からすると、未だに大都市は脆弱である。特に、東京は。下町と高層ビル群とが交錯する街。そして、いくつかの構造物は古びている。そして、例え耐震補強がなされていたとしても、震度7が発生すれば、壊れないという保証はない。特に、東京は、関東ローム層の上にあって、そして、そこに活断層が存在するのかしないのかも明確にはなっていない。そして、多くの街はかつて海であった。その東京の知事が、他者を根拠もいい加減なままに、批判している場合だろうか。


5.一体誰のために
首都の知事に再選した人物が発言した言葉。


神戸の地震の時なんかは(自衛隊の派遣を要請する)首長の判断が遅かったから、2000人余計に亡くなったわけですよね
何故、この人が選ばれてしまったのだろうか、何故、この人を選ばざるを得なかったのだろうか。
これが、悲しい現実というものなのだろうか。


6.地震対策
地震対策には、事前対策と発生時対策と発生後対策がある。神戸の地震以降、種々の対策が進み、事前対策、そして発生時対策の方法などが、より深く研究され、よりよい方法が構築されていった。それらは、全て地震後に構築された。今からなら、誰でも当時の批判が出来る。しかし、当時がどのような状況だったのか考えるべきだ。そして、悲しい事に地震対応に追われて自ら命をたった人までもいるというのに。
そして、その事前対策については、まだまだ進んでいないのが現実である。既存不適格の構造物は未だに日本の至る所にある。もし、全うに地震対策を検討している首長であれば、真っ先にこの問題を指摘すべきであろう。過去の悲劇に対して、不適切な発言をするなどとは。あの悲劇に対してである。辞任に値する発言だと思う。少なくとも、あの震災を経験した人間の感覚からすれば。


7.震災記念館
神戸にある阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センターを、淡路島にある北淡町震災記念公園を、訪れると良いだろう。そこには、十分に資料もある。そして、神戸の人が淡路の人が、ルミナリエを見たときにどのように感じたのかについても、考えるべきだろう。
いくら実行力があったとしても、人が何を如何に感じるのかについて、考える事の出来ない人、基本的に他者をバカにした発言しかできない人はトップにはふさわしくないというのは、私の個人的な意見である。そんな人が、いくら口先で弱者支援と言っても信用できない。そして、悲劇が起きたときに被害を受けやすいのは、既に弱い立場にある人間である。

関連リンク:
asahi.com:阪神大震災「首長判断遅く2千人犠牲」 石原氏が発言 - 社会
神戸大学トップページ / 研究活動 / 神戸大学 阪神・淡路大震災10周年事業報告書 / 慰霊事業および震災研究集成・展示事業
Powered BY AmazoRogi