シグマー・ポルケ展 at 上野の森美術館 鑑賞記

体調優れぬまま、書き込みすら出来ずにでしたが、
その体調を引きずりながら、
2005年10/1〜10/30まで上野の森美術館開催中の
シグマー・ポルケ美術展に行ってきました。

ドイツの作家で、写真と絵画の融合というのか重ね書きにを、
キャンパスではなく、布地の上に展開するという画法をしばしば
使用する作家。ゲルハルト・リヒターと並び称される存在。
この二人を、画風の対比でいうとカンディンスキーモンドリアンというのか、
混ざりに混ざった混沌性による多面性と最終的に簡素に向かうことによる多面性の違い、
というと、ちょっと乱暴な比較かもしれないけれど、個人的には
そのような印象で、シグマー・ポルケはこの前者。
で、実際に見てみるとかなりの面白い作品で。
多重化された画面のその濃淡と画材の光沢などの効果によって、
思いっきり近接で見たときの絵の印象と遠巻きから見たときの絵の印象が
別のになったり、見えなかったものが見えたり、見えていたものが
見えなくなったり、ぱっと見ただけでは感じられなかったものが
しばらく見ていると浮かび上がってきたり。

この多重性というのか、多層性は芸術でしばしば見られるもので、
たとえば、マティスの作品は、何度も何度も書き直しが加えられた末に、
消されたはずの線が完全には消されず最終的な作品の画面にも残存することで
純化と単純化だけでは表現しきれない多様性が提示されているともとれるし、
キュビズムにおける横顔のような正面からの顔のような様子も
視点の多層性である。
そういった要素が、さらに抽象的なものとつながり、写真、生地などの
ミクストメディア的な要素も絡めて提示されているのがシグマー・ポルケの
作品のおもしろさなのだろう。
一つの真実という概念は神とともに死んで、
すると、もはや多視点的に捉えていくことしかできなく、
一方でそれは、価値の解放という側面と価値の混乱という側面と
その両方を持つことになる。
そこでの存在とは、結局存在が存在として存在するというであって、
存在するというそのことを、それがどのような存在であれ、
存在に対しては肯定として捉えることになり、すると、
存在があふれ出すということになる。
多様性を促すことによる存在のバランスをとることにこそ、
進むべきところは無いのではないかと、
いや、あまりにも本展から離れすぎた議論となってしまった。

シグマー・ポルケ展
ゲルハルト・リヒター展