ICC | Open nature | オープン・ネイチャー|情報としての自然が開くもの 鑑賞記

東京初台のオペラシティー内にあるICCにて、このたび開催されています”オープン・ネイチャー|情報としての自然が開くもの”と題された展示(7月3日まで)に行ってきました。
このICCは、毎度テクノロジーを利用した芸術を扱っているところで、NTTの文化施設、つまり、コミュニケーションがテーマとなっていて結果として、テクノロジーによる新しいコミュニケーションということなのでしょう、テクノロジーやコミュニケーションが主題であり、造形物の展示ではなく、映像やインタラクティブな作品が多く扱われています。非常に興味深いものが毎回展示されています。
で、今回のものですが、展示そのものも面白かったのですが、たまたま行ってみると、アーティストトークの日になっており、出品している建築家とThe Sine Wave Orchestraの話を聞くことが出来ました。いずれも非常に面白いものでした。前者は、自然と建築の調和についてであり(こう簡単にまとめすぎると陳腐にも見えますが、そうではありません)、後者は多人数でお互いがサイン波を発しながらその干渉を扱う芸術家というのか音楽家というのか集団です。後者の試みは特に興味深いものです。一応コアメンバーということで4人のメンバーが登場していましたが、この試みは演奏家がいてその人達の発する音楽を聴衆が聞き入るという携帯ではなく、その場に来た人がそれぞれにサイン波を発しながら、それぞれに干渉で遊ぶとそんな企画ものです。こういうと最近はやりの鑑賞者参加型のものかということで新規性を感じないかもしれないですが、参加型ながらも参加者もそして、企画者もいずれもがサイン波のみを発するというのがみそ。”もの”というのは振動特性によって表現することが可能で、それぞれのものは固有周期をもっており、また様々な周波数を発し得る存在である。つまりサイン波というのは或る意味では根源的な特徴でもあるわけで、個々人がそれぞれにサイン波を発しながら干渉しあうところに場が出来上がるという様子は、あまりにも社会的であり、非常に象徴的だと思う。また、音楽と定義するか芸術と定義するか曖昧なところにあるというところも鋭く、またいずれの存在であるにしても従来の提供者と鑑賞者という関係ではなく誰もがその場に参加した時点で同様な但し、異なるサイン波を持った集団になるという関係性
になってしまうところが鋭い。これは、社会システムの変化をも象徴していてかつてのヒエラルキーでは、そのような提供者と鑑賞者的な上下関係が主因であり、支配者側とそれに反抗する側という形を時にはとり、故に分かりやすかった社会があった。例えば、社会に何かを思ったときは、社会を批判すればそれで良かった。それが70年代の闘争であった。しかし、現代はそうではない。社会を批判しようにも社会というものは最早絶対的な場としては存在しなくて、気がつけば、自らもその場の当然の一員であり、当然も構成者となっていて、社会批判はそのまま自己批判として跳ね返ってきてしまうというじょうきょうになっている。そのような場では何か不足のものがあったとしても、それはほぼ個人の問題に帰結して、個人としてどうにかするしかなく、それに対して、邪魔となるような絶対的な社会というものは無くなったとは言えないが、希薄になってしまった。こういうと、そのことによりより個人が自由を獲得し、個人のやり方で何とかなる社会が築かれたような錯覚に陥るが、実はそうではなく、依然として、個人としての無力さ加減を感じることは少なくなく、一方でその状況を社会のせいにしてみようとしても、それに対抗するような社会も存在しない。つまり、そこでより中空に放り出されている感覚が強くにじみ出してきており、そのことに個人が気付き始めているのが今の現実だと思う。そのような状況に対比して、サイン波を発し合う集団とはというと、そこでは、最早鑑賞者ではなく参加者になったそれぞれは、たとえば、それが楽しくなくても、かつてなら演奏家や創作者の批判をすれば良かったが、参加者である以上自らも共犯になるわけで、楽しくない原因をそこに求めることが出来なくなり、それを自らで消化しなければならない。逆にその世jに自ら消化していくより密接に造形に参加するという楽しみにも触れることが出来るというわけだ。しかし、一方で、そこではただのサイン波に過ぎず、例えば、ギターのうまい人が突然ギターソロでの即興をやって注目を浴びるというようなことはなく、或る意味ではあまりにも平等になりすぎた集団であり、自由のようで、しかし、それ以上の存在になることも出来ないというジレンマを、正に、現在の現実に在るジレンマを見事に象徴している。そして、そのジレンマさえも、ジレンマとして捉えるのではなく、参加者が参加者としてその場を楽しむという状況に昇華してっていて、それは、この現在の現実での存在の在るべき姿を現しているようでもある。この感覚は非常に面白く、一見かつてのミニマルミュージックなどを彷彿とさせてしまうが、そういったものではなく、非常にコンテンポラリーなものである。また、メンバーの一人が言っていた、音楽だからいい、その場で消えてしまうからいい、まさに時間と空間の芸術であるという表現は非常に的を得た感覚打と思う。思わずうなってしまった。
ここで、少し前者の話の方へもどるが、こちらは、環境へとけ込んでいく建築をテーマにした話であり、環境と調和した人工造形の象徴として棚田を取り上げていた。ここでの話でも重要なのは、自然のものと人工物の調和であると思う。つまり、事項物は自然物と分断することによりこれまでは存在を確立していたのだが、そのことによる不具合が至るところで出てきており、それに対して、自然と人工がシームレスに何らかのインターフェイスによりつながれていく、自然と建築の場合はそのインターフェイスが水であるということだろう、という状況を理想とすると発言されているように私は感じ取ったが、こういった感覚は先ほどのサイン波のところで述べた感覚とも繋がってきていて、つまりかつて存在した、存在することが当然であったはずの境界線が、そして、むしろその境界線によって存在が安定的であったものが、否定されてきており、むしろ、境界線が消え去る状態の方が理想状態であり、安定的な存在に繋がるという価値概念へと既に変化していっており、それは、社会的にもそうだし、技術的にもそれが可能になってきている、ということが強く表現されているように思う。これは、正にこれからの時代の様子に繋がると思う、インターネットを始め様々なものがより大衆的になっている現代では、かつての大衆とは異なる大衆像というものができつつあるのではなかろうか。そして、そこでの人々はより種々雑多になり、その一方でインターフェイスにより繋がりあう、例えばみずであり、例えばサイン波である、という社会になりつつあるのだろう。まさしく、その状況を象徴する話がここで展開されていたように思う。また、ここで、建築家と音楽家という異なる世界が同じ舞台でお案じようなテーマで離されていると言うところも、インターフェイス性を感じずにはいられない。

リンク: ICC Online | Archive | 2005年 | Open nature | オープン・ネイチャー|情報としての自然が開くもの
The Sine Wave Orchestra