サミュエル・ベケット:エンド・ゲーム



1.ぎりぎり
さて、世田谷パブリックシアターのシアタートラムにて、現在開催中の演劇、サミュエル・ベケット生誕百周年を記念しての、エンド・ゲームに仕事をぎりぎりで切り上げて、何とか無事見ることが出来ましたとさ。


2.概要
もともとの邦題は「勝負の終わり」で、今回は翻訳を新たにして、タイトルも変えている。出演者などは、こちらを参照ください。


3.ベケット・シンポジウム
そんな中、ベケットシンポジウム早稲田大学で開催されていて、そのプログラムの一環にも組み合わされている関係上だろうが、観客に外国のかたも散見された。


4.展開
そんなわけで、劇が始まる。終わる。もうおしまい。まさにベケットという作品で、常に、進行しているのか、していないのか、という展開が、さらに、登場人物までもが、少しは進んだようだ、などと話したり。椅子に座り続けるハム、そのハムに指示されるクロヴは、部屋の中をうろうろと、そして、部屋から出たり、ナッグとネルは、ドラム缶の中から時々顔を出す。それだけ、何も起こらないといえば、起こらない。ハムとクロヴの無理問答が続くかのようで。すこし、笑いを誘うところもあるが、延々としている。繰り返している、少しずつ変化しながら。そして、終わる、始まる。


5.虚しさなのか
何も起こらないその場所で、それでも続ける。生命を象徴しているようでもある。ただ、時間が経過する。そもそも、その時間が経過しているのかどうかもわからないが、変化はしている。それは、照明によって表現されている。それは、虚しい事実なのか。それとも、虚しさ以上のものなのかもしれない。何か意味のあることなどあるだろうか、存在に。意味は無い。だからといって、それを停止させることも出来ないし、そうする必要もない。それは、虚しさではなく、力強さであるように思えることもある。意味を必死に求める必要もないし、何らかのバックグラウンドがなければならないということはない。ただ、そこに、そうやって、繰り返しているだけ。まねしているだけかもしれない。ただ、少なくとも、螺旋を描いているようには思う。延々と繰り返される。それが虚しそうだからといって、逃げる場所もないし、逃げる必要もない。


6.ポストトーク
公演後には、著名なベケット研究家であるスタンリー・ゴンタースキーさんのレクチャーが付いてきた。とても、興味深い話だったけれど、とてもうまくまとめきれない。ただ、ベケットの作品の様々な隠された意味をいろいろな側面から読み解いていて、とても面白かった。そこに見られる、まねという行為やループ、始まりと終わりの接続、単純さと複雑さが絡み合う。メタ構造と構造が混じり合っている。ベケットの作品はたしかに、読み進めるごとに多くのものが変容していく、登場人物の存在も、登場人物同士の関係性も、その舞台の様子も。可変システムになっていて、そうであるが故に、普通の読み方をしていると混乱する。混乱するけれど、そこにある何かが、決して、それを解説するレベルではないとしても、感じられてくる。先にも書いたが、虚しさのようで、だけれどもそうではなく、強制されているようで、自由すぎるようで、2項対立には押し込みきれないということを描ききっている。


7.ループではなく
この作品、始まりから終わっている。だから、ループのようでもある。だけれども、ループではない、少なくともきれいなループにはなっていない。だから、メタ構造もぐちゃぐちゃになっていて、そう、そのループは関数では、少なくとも単純な関数では表現できない。螺旋階段のようでもあるけれど、登っていくわけではない。時間軸の分だけずれているだけではない。同じところに来たような気がするけれど、そうではない。つまり堂々巡りに入り込んでいく。そんなもんなんだ、存在とは。

関連リンク:
Samuel Beckett: Apmonia - Author Homepage
Japan Samuel Beckett Home
Journal of Beckett Studies
サミュエル・ベケットについて
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