サミュエル・ベケットの極地「事の次第」



サミュエル・ベケット

ゴドーを待ちながら」という演劇作品が最もよく知られているノーベル賞受賞作家サミュエル・ベケット。言語の限界に向かいながら、時に人が自分自身ですら表現することが出来ない感情を、言葉として現出させることに挑んだ作家ともいえると想う。
そんな、サミュエル・ベケットの作品の中でも、究極の到着点ともいえる作品が「事の次第」。


まずは

「事の次第」これをどこから語ろうかというところから難しい。まず、ベケット作品であるのだから、物語という形式を超越していることは今更説明は入らないだろう。ある人が、何処かへ向かう。ピム以前。そして、そのピムに遭遇した後。それから、その後のピム以降。大きくはこの三章で成っているが、何かの物語がそこで進行するわけではない。


文章

ここで使われる文章は、さらにそぎ落とされている。「消尽した」とも表される文体は、ここでは、句読点が省かれ、数行で段落切りされる言葉の塊として表現される。そして、一体何を描き出そうとしているのかという文章。表面的な感情が入り込む余地の無い文章が、深い感情に入り込んできて、同情をかき立てられる。
そう、冒頭にも少し書いたように、我々は時に自己の感情を理解仕切れないが故の苦しみを感じる。言語化されれば、それだけでも癒しにつながるのだろうけれども、最も大きな苦しみはそれが言語化されず、つまり理解不可能であるが故の、同情のなさが孤独を拡大する。
しかし、まさにベケットの文章は、ただ描くことを拒否することにより、その境地に達している。特にこの作品のピム以前は、孤独そのものでもあるようにも思えるが、そこには、むしろ読者との強いつながりが生まれてくる文章にも成っているように感じた。


ひろがり

その、ある意味研がれきった文章に対して、ピムと会ってからは、印象が異なってくる。ピムとの関係性によって、世界が広がり、そして、さらに主人公自身が持っていた様々な関係性が明らかにされていく。個が解かれ、家庭へと広がりを持ったともいえよう。この章によって、ある意味、先述の同情がむしろ、破られていく。強烈に保持したい個に対して、関係性の中で存在することしかできない個は、しかし、別の個である他者に対して、どうあるのだろうか?そんなこともあって、このピムの章では、文体にはどことなく心地よくなさが入り込んでくる。


循環

ピム以降になると、そこからは、また違う世界が広がる。そして、ピム以前と、ピムと共にと、ピム以降、という三章であルと思っていた世界が、そこに終わらないことが明らかになってくる。しかし、一方で、それが単純に巡回するのだと理解しようとすると、それは否定される。むしろ、圧倒的につながる直列である。それは何か、生まれてから育ち、死ぬまでなのか、いや、それもまたあまりに安直な理解のし方であろう。むしろ、直列と言うよりは並列であるのかもしれない。この三つの形態が、我々の中に内包する状態であり、それがきれいに三つの形態に分解されてここに描き出されている、そんな気がしてくる。


個とは何か。我々は個でありながら、存在という相互認識でしか成立し得ない世界にあって、だから、個だけではあり得ない。その個にベケットは常に深く入っていくようでもある。物質的な存在は消尽させてしまい、それでも残るものの中に、救いがあると、それは、ちょっと言い過ぎかもしれない。


体験

ベケットの文章体験は衝撃的すぎる。ピムと会う前と会う後ではないが、ベケットを読む前と読んだ後では、世界が一変すると行っても言い過ぎではないだろう。我々が表向きに想っている認識以上のものがこの世界にあるということを発見させてくれる、ベケットの文章にはそんな力がある。理解というものを超えた世界。いや、言葉ではうまく言えない。きっと、だから、ベケットがこんな作品を書いたのであって。


文学

文学とは、私はこういうものだと思っている。世界への認識を広げてくれる補助と成るもの。即物的で表面的な世界だけではなく。
最初に「ワット」を読んだときには、あまりにもの衝撃だった。そして、そこには何か計り知れない窮屈な文体ながらも、自由そのものがあるように感じた。そして、この「事の次第」はそこからさらに削り取られていき、究極境地に達した文学と私には感じられる。
とにかく、体験して欲しい。


事の次第

事の次第